第1譜「MORNING JOY」                                     第2譜「PALACESIDE」      




 聖公会聖歌集の所信表明

 2006年版の日本聖公会聖歌集は、世界の賛美歌学のメインストリームに位置するアイオナ共同体のジョン・ベル氏による第1番「SLITHERS OF GOD(新しい朝よ目覚めよ)」で幕を開け、続く第2番に純日本産の聖歌「風に目をさまして」を据えています。これはパウロ宮ア 光司祭に言う“J-Anglican Hymn”に於ける《所信表明》でしょう。故にこの第2番「風に目をさまして」は現在の日本聖公会聖歌集に於いて、とても重要な聖歌だと思えます。世界のキリスト教会に向け、21世紀初頭の日本聖公会のスタンスを表すものとして、私もこの聖歌を心して歌おうと思っているのですが、実は私は礼拝で一度も歌ったことがないのです。きっと偶然でしょう。




 2つの「風に目をさまして」

 聖歌第2番「風に目をさまして」の詩には2つの曲が付けられ、それぞれ「MORNING JOY」(第1譜)、「PALACESIDE」(第2譜)として掲載されています。どちらも日本聖公会の聖歌改訂委員会メンバーが総力をあげて独自に作ったものだと聞いています。明るくダイナミックな旋律線を持つ「MORNING JOY」は現在の賛美歌学に沿った風通しの良い“新しい曲”(飽くまで日本に於いて)、旋律の起伏が穏やかで奥ゆかしい「PALACESIDE」はオーソドックスで日本語の合唱曲に近い“昔ながらの曲”。しかしどちらも《風に目をさまして、歌にのせる新しい感謝、ひびき合う心と声》の歌詞の通り、爽やかな香りのする楽曲です。


 2006年の発行から早16年が経った現在、YouTubeを観る限りでは第2譜の「PALACESIDE」の一人勝ちで、第1譜の「MORNING JOY」を歌っている動画はありません。これには私はかなり驚きました。そして「MORNING JOY」が大ブレイクしなかったのは何らかの理由があるのだろうと考えました。


 私の個人的な意見に過ぎませんが、「MORNING JOY」はこの聖歌集屈指の名曲だと思います。なのでバンド“Elpis”でも取り上げて演奏しています。この曲をじっくりとアナリーゼすると、浮き上がってくるのはリズム…しかも南米ラテンのリズム。楽曲はギターで作曲されたのではないでしょうか。メロディーには潜在的にサンバ、もしくはボサ・ノヴァ(かなりアップテンポで)のリズムがあります。




 礼拝に於ける《使いやすさ》とは?

 「MORNING JOY」は無伴奏で歌ってみても、メロディーそのものにフィジカルが躍動する“リズム”を感じます。そして曲の終わりに向かって徐々に盛り上がっていく旋律線には開放感があり、希望に溢れ、感動的であり、何より最初から最後までで1つの旋律線という“息の長い旋律”です。しかしそれ故の使い難さ…かつて英国のレイフ・ヴォーン=ウィリアムスが指摘した《物憂げでセンチメンタルなものは讃美歌/聖歌には不向きである》との見解を思い起こさせます。とてもメロディアスで感動的なものですから、かえって使い難くなってしまっているかもしれません。


 一方で「PALACESIDE」は穏やかで抑えた旋律線をもつ“Aメロ”から始まり、特定の匂いや色彩を想起させるような個性も主張も、敢えて薄めているように思えます。何気なく始まり、旋律線は途中で一旦“トニックに解決”(お家に一時帰宅して出直す感じ)してから、ダイナミックに上へ上へと昇っていく“サビ(コーラス)”に向かって再出発する2段構え。アメリカ産の古い讃美歌スタイルを踏襲し、M7を多用する一時代前のアメリカン・シンガーソングライター的な(ローラ・ニーロやキャロル・キング、トッド・ラングレン的な)ハーモニーが付けられています。しかもリズム的には大バラード。既に馴染みのある形をとり、予め礼拝で用いられやすく作られているため全国の聖公会の礼拝でポピュラリティーを得ている…とも考えられるのです。別の言い方をすると、「PALACESIDE」がなければ、この日本聖公会聖歌集の所信表明のような歌詞は、現在ほど広まっていなかったかもしれないな、と思いました。




 日本のキリスト教会に於ける保守性

 同一歌詞に2つの楽曲、しかも両方とも作者は改訂委員会(The Committie)のものが存在するのは何故なのか?という疑問もこれで晴れます。日本の社会的な閉塞感、人々が感じている悩み苦しみをすくいあげた(現代的な)歌詞に対し、聖歌改訂委員会は世界の教会のメインストリーム(多様性を積極的に受け入れてより豊かな礼拝にする)に準じた第1譜を置きながら、その潮流(ストリーム)は世界の教会との関りの薄い日本の津々浦々の教会には未だ届いていないと考え、敢えて世界的には「そういうのは十分にあるからもう要らないよ」(*注)と言われそうな古風な曲を敢えてこしらえて第2譜として据えたのでしょう。これは現代日本という風土に適合させたローカルな措置だと考えて良いと思います。遅れていようが何だろうが、現実的に必要なことを正しく行ったのです。日々の礼拝という場所でグローバリゼーションを意識し、それを第一義にする必要はないと私は考えます。


 そして2022年現在、改訂委員会の措置は的中しています。第2譜の「PALACESIDE」こそが「風に目をさまして」の“顔”となりつつあるように、ネット上では思えるのです。それが日本人のメンタリティーや礼拝様式に適合するからだ、又は「PALACESIDE」の方が良い曲だ…等、いろいろご意見あると思いますし、それらは全て正しい。それらを踏まえた上で私は、何故ここに同一作者の2つの曲があるのか?という事実に目を向けてみたいのです。それこそが日本聖公会聖歌集(2006年版)が、半世紀という長い時間をかけてまで改訂された理由に他ならないと思うからです。




 地域の風土に合った礼拝を

 私の幼い頃ですら日本は激しい基督教弾圧のあった歴史(そのアウトライン)だけを幼い頃に学校で学ぶせいで、大人になってもクリスチャンのことを“隠れキリシタン”と呼ぶ人もいたほどの社会環境でしたから、教会という場が地域でポピュラリティーを獲得している(地域の中心となり得ている)とは限らず、信徒の精神性も変化を好まない保守的な志向になっていたとしても致し方ないと思うのです。何しろ基督教弾圧の際に非人道的行為によって名を上げ、後に歴史に名を残すにまで至った人間のクズのような武将が居た地域では、そのクズ武将がマスコット・キャラクターになって愛されているような日本です(私個人としてはそのようなメンタリティーは世界各国にあるので、アメリカに於いて原子爆弾を礼賛する人々が居るのも仕方ないと考えます、それが善であるかどうかは別です)。外から見れば教会の日曜の礼拝は“隠れキリシタンの集い”に見えている人も居るかも?!…んなこたーねーか。だからこそ戦前から続く(少なくとも第二次大戦中にも弾圧を受けた)教派は保守に傾きがちになったとしても、誰も責められるものではありません。むしろそれでも尚、生き延びて信仰を守り抜いた事を讃えるべきです。日本の教会の保守的な精神性はそんな歴史の上に成り立っているものであって、無理に世界と足並みを揃えることもありません。故に変革は、それが必要とされる時が来るまで、別にやらなくても悪くはないのです。


 そんな日本ですから「PALACESIDE」の方がよく歌われているということは今必要とされている証であって、それこそが最も重要なことです。将来的にも、歌詞のメッセージが後世に残るために大切なことです。そして来る時が来たら、「MORNING JOY」にも陽があたるでしょう。だからこそ「風に目をさまして」の2曲は、現在と未来を繋ぐ、日本聖公会聖歌集(2006年版)を代表する聖歌だと私は思うのです。心して歌おうと思います。





 追記

 兄・パウロ宮ア光司祭と話をしました。最近「MORNING JOY」が脚光を浴びてきて、教区によってはよく歌われている…とのことでした。主に教会毎の礼拝音楽担当者のコミュニケーションを密にしている教区でこそ、その傾向が強いとも。同一歌詞に曲が2種類あるからといって、どちらか一方を選択しなければならないのではなく、暦や季節感などに配慮して礼拝で用いる際に“同一メッセージの複数の曲を選択できるアドバンテージ”だと考えられれば良いと思います。同じ日の礼拝で「MORNING JOY」と「PALACESIDE」の両方を用いたって良いじゃありませんか。








*注)「そういうのは十分にあるからもう要らないよ」

 私の作曲した聖歌の人気作は、ここ日本に於いては第412番「主をもとめよ(AMOS)」です。ですが海外、特に西洋に持っていくとスルーされます。もうこの手の聖歌はオールドファッションだし、昔に沢山あったからいらないよ…といった感じです。その代わり第487番「重荷背負う人に(OMONI)」には”これこそがジャパンだ!”と感じるらしく、まるでお寿司のように喜んでくれます。これは飽くまで主観の違いに他なりません。私は第487番を「日本をシンボライズする聖歌」といった趣向では書いていませんし、西洋の方々が喜んでくれているポイントには共感しません。けど共感しないからといって決して否定しません。讃美歌のメインストリームとは常に新しい讃美歌の在り方を模索し、絶えず提示し、互いに共有していくことでしょうが、その意識、やり方、変化のスピードにリアルタイムでは合わせられない地域や土地もあると思います。その土地や風土、民族性に合致した賛美の歌には“流行”なんてありません。無理にグローバリズムに乗ろうとせず、まず自分たちの足もとを確認すべきです。必要なものは自分たちで知っていればそれで良い、と私は考えます。


 

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