はじめに

 このCDは特異なCDです。音楽CDというより、「音のドキュメント」、又は「音の記録」だという事を念頭に置いて下さい。実際の礼拝中「聖歌」の部分だけを切り取って集めたもので、録音された場所(位置)が会衆席の中であり、明らかに「礼拝に参加している」時に聞こえている“音”が記録されています。ですから「鑑賞する」というより、「一緒になって歌う」又は「共に賛美する」CDだと考えて下さった方が良いと思います(全曲に前奏が付いているのはそのためです)


 更に、このCDは“音の記録”を永久に残そうとするものでもなく、勿論、製作側の独りよがりな思いを満たすだけの代物でもありません。このCD製作の原点は、新しい聖歌集を急速に日本全国に普及させるためのアイディアであり、同時に今後、大小問わず各地の教会での“音の記録”を収集し、CDにしていくことで、宣教150周年記念を迎えた日本聖公会が聖歌(音楽)を通じて1つに結束しようと訴える“草の根運動”であります。私はこれらの製作趣旨に賛同し、マスタリング・エンジニアとして参加することを了承しました。


 正真正銘、全トラックが会衆席から録音された音源であり、その昔ロック・バンドのライヴで観客が隠し録りした、アーティスト非公認の“ブートレグ(海賊盤)”と同等のものです。音の質そのものはスタジオで録音されるものには及びも付きませんから、音楽CDとして聞こうとするならば、あなたの期待は脆くも崩れてしまうでしょう。ですが音のドキュメントとして聞くならば、皆さんは礼拝では体験できない意外な事実に気付くことになると思います。


 例えば、あなたが今、教会の席に座っているとイメージしてください。周囲は皆、立ち上がって歌っています。あなただけが歌わず、座って聞いている(これが現実に行われたなら、あなたは不安に陥るでしょうが…)。しかし周囲には様々な声・息づかい・歌と関係ない音が無数にあることに気付くでしょう。それらはすべて、礼拝の中の「音」であり、人間が生きてそこに集っている上では当然の音、いわば生活音に等しい。礼拝に参加する人には、その「音」を出さないでいられる人は誰もいません。1つの場に人間が生きて集う以上、その「音」の渦の中に置かれるわけです。尚、それらを可能な限り排除し、楽音だけを取り出そうとする試みこそ、私達が普通にCDなどで聞いている「録音」という作業です。


 私達が礼拝に参加し、祈り、讃美する時、その「音」に気付くことは稀です。祈祷書の音がガサガサ、パリパリとウルサイから、祈祷書を持たずに全てを暗唱する事を強要する人はいらっしゃるでしょうか?衣服の擦れる音が耳障りなので、衣擦れの音の出ない特殊なボディースーツを着て礼拝に参加するスゴい人は、果たしていらっしゃるでしょうか?(ストレッチマンが礼拝に出てきたらビックリしませんか?) 思わず咳をしてしまった人々に対し、あなたは一々振り向いて睨み付けますか? そう、誰しもその音には気付いているのに、「気にしない」のです。これは脳の働きによるもので、「マスキング効果」とも言われます。鼓膜に届いた空気振動の中から、脳が必要な音だけ選別しているためです。生活音など自分でも出す音に関しては、脳が一々気にしないよう「受け流す」わけです。しかしマイクが正直に且つ克明に音を収録し、その録音をリプレイして聞くとき、脳の選別機能は一時失われます。それは聞く側の姿勢が、再生装置から流れ出る音が全て「楽音」であるとして「期待している」からに他なりません。条件反射です。


 私達が能動的に礼拝に参加する時、現場の雑音は“気にしない”でいられるのです。更に歌うという運動が伴う時、たとえ子供が不意に叫び声をあげても、たとえ奏楽がヘタクソだったとしても(!!)、ちゃんと皆で心一つに讃美できたならば、他に何が必要だと思うでしょう? 結局、礼拝の実況録音を聴くということは、普段気にも止めない「そこにあった現実の音」と真っ向から対面する事なのです。


 当然、このCDをご購入になり、聴いた後に文句の1つでも言いたくなる方も多くおられたことでしょう。それはそこに居なかったからこそ感じる「特別なこと」なのであります。だから皆さんに、このCDをプレイする時は聖歌集を取り出すなりして(車の運転中にはやめて下さい!)共に歌い、礼拝に参加するつもりで、録音された瞬間の場を擬似的にでも「追体験」して頂きたい。その時、収録されている現場の雑音(楽音ではない音)を別に気にも止めない自分に気付く事になるハズです。


 つまり私達はこのCDを通じて、通り過ぎる事柄が、実際に知っていることよりもずっとずっと多いという事実があることに気付けると思うのです。そこで私は、「いつも目を覚ましていなさい」と叫んだ主イエスの御言葉を思います。私の個人的な感想で恐縮ですが、録音の様々な雑音の中に、もしやそこに主イエスがおられたのではないか?と、注意深く聞いている自分に気付きました。逆に歌っている時には目を覚ましていられるのだろうか?そこにイエスが居たとしても、歌うことに目一杯で、本当に気づけるのだろうか?とも。…きっと気づかねぇーな…。実に良い経験でした。


 とはいえ実は私、この手のアルバム製作法(礼拝の実況録音を切り取ってCDにしようという方法論)について非常に懐疑的であり、実際に反対派の急先鋒であったこともあります。その経験を踏まえ、『今日もまた新しく』のマスタリング作業に着手したという経緯があります。その辺りからお話しします。



 かつて自分が断固反対した企画の再来?

 東京教区礼拝音楽委員のメンバーから、新しい聖歌集の聖歌が、活き活きと歌われている現場を切り取ったCDを作りたい、既に録音音源は揃っているが実現可能なのか聞いてみて判断して欲しい、との打診を受けたのは2009年初頭。要するに礼拝中に録音した音源が多数あり、それが“使えるかどうか”の判断をしてほしい、というワケです。


 身も蓋もない事を言うようですが、この時点で私が「使えなーい!まるっきりダメー!」とクソミソに一発言ってしまえば、このCDは製作されなかったでしょう。私も苦労しなくて済んだかもしれない(?!)。製作側は多分、実現できる方法をナントカひねり出してくれるだろうと、私に大いに期待していたのだと思います。が、私はこの手のCDの製作法には、多分最も厳しい考えを持っていると今でも思っています。製作側の期待が脆くも崩れる可能性は、9割以上の高い確率だったことでしょう。


 今から10年前の1999年、私のプロデュースで世に問うたエキュメニカル讃美CD『UNITY!〜サイバースペースのクリスチャンたち』の製作会議(会議は全てネット上で連日行われた)の席で、「礼拝で用いられてこそ“讃美”であり、主に捧げる讃美の瞬間をライヴ録音するCDが最もリアリティーがあり、かつ望ましい」という大多数の意見に、私は断固反対した経験がありました。この時に私が筆頭に挙げた理由(=表向き)としては、『UNITY!』収録曲の多くが出版もされておらず、模範となるような演奏を収録しなければ誰も聞いてくれやしねーよ、という考えからでした。が、本当のところは違います。小さいけれど教勢が急激に上向き傾向にある活気溢れる教会では、なぜか礼拝を録音した賛美CDが数多く製作されており、それを聴いてみると「おい、ショボイぜ!なんだこりゃ?」と首をひねった経験があったからです。最後まで聴く前に、途中で止めるぜ!


 又、当時はアナログ・カセットテープがまだ主流だった時代。デジタル・オーディオは高価で、ごく限られた人しか持っていなかった時代です。讃美を収録するマスター・メディアがカセットテープでは音が悪い。しかも私自身が各地に出向いていって、礼拝前に念入りにマイクを立てて「さぁ、最高の讃美を録音するぞ!」などと構えたところで、そう簡単に感動的な讃美の瞬間が録れるワケでもない。「いいテイク」が録れるまで、予想を遥かに越えた長い期間を要するでしょう。誰が滞在費を捻出してくれましょう? 普段の生活はどうなるんだ? 仕事はどうなる? これではいつまで経ってもCDは完成しません。ですから「賛美をライヴ録音し、CDにしよう」という企画を、製作側がインスタントな姿勢で考えているとすれば、今でも私は決して賛同ないことにしています。


 勿論、『今日もまた新しく』収録曲は全て出版済みの聖歌集にあり、既に教会で用いられているものですから、全てを『UNITY!』と比較する事は適当ではありません。


 ところが今回、私は少々驚かされる目に遭いました。『今日もまた新しく』のための収録候補曲の音源は全てデジタル録音だったこと、それに聖歌集出版の1年以上前から、複数人が新しい聖歌を用いる礼拝・集会に積極的に参加し、音楽録音に十分耐えられるフィールド・レコーダー(ICレコーダーのスゴいヤツ)を使ってノーカットで録音してきた膨大な記録の中から、「まだ誰もちゃんと歌ったことがない新しい聖歌が、歌われることによって命が吹き込まれる瞬間」を主眼に選んできたことです。そこには強い生命の力を感じる、壮絶な勢いのある録音が多数含まれており、「この録音は、音楽の貴重な瞬間をとらえている」と思えるものがごく僅かながら、しかし確かに存在していました。これは実際、長年録音に携わってきても、なかなか出会えない貴重な事です。


 余談ですが、何と私自ら録音した2006年11月11日、大阪・川口キリスト教会にて行われた聖歌集出版記念聖餐式を録音したMDの音源もエントリーされていました。



 デジタル録音である難しさ

 しかしそれだけで、私が軽く納得して「いいじゃーん、CDにだって出来るヨー!」などと言えるワケありません。次に私が危惧したのは、音を明瞭にし、キレイに整える“マスタリング”という作業に、これら音源が耐えられるかどうか? という点にありました。いくらオール・デジタル録音の礼拝ライヴであっても、善し悪しもあることは重々承知していたからです。それは2003年に製作した『NAOSHISM - ヨシュア宮崎尚志メモリアル』(写真右)に収録した、告別式ライヴ録音のトラック(後に聖歌集に採用される曲がほとんどで、全てが初演時の模様という貴重盤)をマスタリングした経験によります。


 デジタル録音は明瞭なため、参列者に配られた式文(譜面を含む)の“紙の出す雑音”がガッチリ収録されているだけでなく、ヒソヒソ声の内緒話など、人間が出す多種多様の雑音(楽音とは関係のない音)までもが克明に録音されていました。しかもそれらは完全には取り除くことができない。案の定今回のCD音源でもそれにブチ当たりました。『NAOSHISM』は非売品でしたので「しょうがない」で通せたとして、今回は売り物ですから、この絶え間ない雑音がリスナーに許容できるのかは疑問でした。


 この時は、私にはやはり『今日もまた新しく』を音楽CDとして楽しめるものにしたいという基本的な考えがあったのです。そうでなければCDを手にした人に、どうやって聞けっつーのよ! やっぱCDは聞いて楽しみたいんじゃないか?


 更に試験的なマスタリングを開始してすぐに未知なる問題に激突しました。フィールド・レコーダーは、搭載したSDメモリーカード(携帯電話で使ってるmicroSDカードの標準サイズ。デジカメでよく使われる)に音声を圧縮音声“MP3”で記録していますが、連続する不可解なノイズが乗っていることを発見しただけでなく、中には変換自体が上手くいってない不良録音もありました(機材のコンディションによる問題も考えられる)。又、そもそも「記録」として残しておくつもりで録音したものが大半を占めていたため、音割れ(歪み)防止策として、内蔵のリミッター(※)をONにした録音が圧倒的に多く、全体の音量がランダムに上下する困った録音も多くありました。


(※)リミッターとは?

録音が歪んでしまわないように、大きな音が入ってくると録音レベルを急激に下げる働きをする、昔からあるスタンダードな機能。デジタル録音では録音レベルが過大になれば必ず歪み、原音は完全に損なわれるため、録音レベルの設定が難しい。よってONにして録音すれば、歪みは限りなく抑えられる。日本のオーディオメーカーの機種には、“AUTO REC”という名を付けて、リミッター付きの録音を簡単に行える場合がある。



 もっとスゴいのは、歌われた聖歌の音よりも、外で鳴いているセミや鈴虫のほうが俄然、明瞭に録れているヤツがあった事です!明瞭に録れている方が、オーディオ的な聴感覚では耳元(最前面)で聞こえます。



セミの鳴き声のバックに聖歌が聞こえる…



まぁ…なんてス・テ・キっ!



…なんて思いますかかフツー?! それに合う映像でもなければイライラしまっせ!


 これらをスタジオ録音並のレベルにまで追い込むことは可能か?と言われれば、多分熟練のマスタリング・エンジニアですら“ノォー!ワンスモア、ノォォォー!”と、「マカロニほうれん荘」の後藤熊男先生の如く叫んで、コマの外へ即行で走り去るでしょう。それは無理です。しかしながら“まずまず聞けるレベル”に持っていくだけの方法論ならいくらでもあります。別のものを付加して、耳障りな部分を隠してしまうのです。これはマスタリングというより、スタジオでの“リミックス”に近い作業になります。ただ、それを誰に伝えて実際にやってもらうかを考えたら、簡単には誰もやらねーだろーなーと思いました。何しろ予定されていた収録曲数が20曲を越え、1曲毎に音がまるっきり違うという、非常に面倒で時間もかかる作業を、喜んで引き受けてくれる腕の良いプロフェッショナル・エンジニアを探すのは困難でした。


 そこで製作側に、マスタリングすると明らかにダメダメになるトラックが半数に上るので、許容範囲内のトラックだけでマキシシングル状態のCDにせぇーへんか?と打診しましたが…、なんとかならんかなーとアッサリ却下されました。それじゃーもっともっと、誰も引き受けてくれない過酷な作業になるではないかっ!


 これは私がまだ「音楽CDにする」という既成概念から抜け出ていなかったため、悩む結果となりましたとさ。



 コーディネーターのつもりがマスタリング・エンジニアに

 このCDはシリーズ企画であり、故に最初の第一歩(1枚目)は重要です。逆に言えば第一歩で製作側の意図がブレてしまったり、誰かの意志でブレざるを得ないような事があってはならない。頑固一徹、貫き通すものを一発目で具体化し、提示しなければなりませんから、最初の一歩はシリーズ企画の“基準”となるワケです。しかし音源を聞けば聞くほど、こんな危険な賭けにチャレンジするエンジニアがいるもんか!と思うようになりまして、ならば自分でやっちまえばいーじゃねーか!(本職とは違うから危険な賭けじゃない)と思ったのです。


 丁度、製作側はこの企画のCD盤製作を請け負ってくれる会社を探しており、私が『UNITY!』以来懇意にしていただいている出版会社、株式会社ヨベルの安田正人社長を紹介し、快く引き受けていただいたばかりで、安田社長から「盤のマスターは道さんが作るんでしょ、やっぱり?」と質問されたりしたものですから、「他に誰が喜びを持ってやると思います?」などと答えたあたりから、「久々に一緒に仕事しようか」という流れで、自然にマスタリング&マスターディスク製作を私がやることになっていきました。


 私の本業は“作曲家”ですが、2003年に没した作曲家・宮崎尚志(父)の仕事を引き継ぎ、それが父の遺した古い録音のリミックスやマスタリングといった作業になることが多いため、この手の作業について不慣れではありませんでした。とはいえ、やはり今回のCDは音源が音源だけに極めて手強いと感じていたので、作業開始前に友人のミキシング・エンジニア=葛巻俊郎氏にアドバイスを求めました。彼は、参考になるだろうからと、自身の著作本『マスタリング・テクニック』と『レコーディング・テクニック』の2冊を送ってくれました。マスタリング・エンジニアとしても復刻CDなどで数多くの仕事をしてきた葛巻氏は、「レコード会社の管理がズサンで、復刻CD製作にあたってカセットのコピーテープしかない場合もあったが、丁寧に音を聞いて追い込んでいけば、十分に聞ける状態までもっていける。たとえMP3であっても最近のデジタル録音なら、音質的には十分だから、やり甲斐はあると思う」と励ましてくれたものです。「ワタシにやらせて!」とは言ってくれりゃーよかったんだが…。



 2種類のCDマスター・ディスク

 細かい作業内容については省略しますが、CD『今日もまた新しく』では機械的な残響を基本的に付加していません(尚、「誰も一人だけでは」と「時を超え愛の力は」の2曲だけには、最後に残響を付けています)。ブックレットに明記されている通り、各トラックには録音された場所と日付が明記されています。それ故、「録音された“現場の記録”であるから、その場にない音は基本的に付け加えないようにしてほしい」と製作側からダメ出しがあったからです。


 「ダメ出しがあった」ということはですね、このCDのマスタリング作業は、トータル2回行われたということなんです、ご苦労なことに。


 

 1回目のマスタリングでは、音楽CDとして聞いても最低限許容できるよう、ほとんど全てのトラックに深い残響をプラスし、聖マリア大聖堂で録音された6曲目「御使い来たり告げん」と似たサウンドにまとめ、不要な雑音を“マスキング”(他の音で包み込んで目立たなくさせること)する方法を取りました。そのサウンドは原音とは明らかに“別世界”だったことは言うまでもありませんし、どこで録音したんだよコレ? という感じです。一応、こんな音でした、というサンプル音源を、下に載せておきましょう。聞いてみて下さい。CDが出ている現在ですと、興味深くお聞きになれると思います。


第132番「荒野にひれふし」(1st Mastering Take)



 技術的な話ですが、残響によるマスキング効果は大きく、ガサガサ・ゴソゴソいう現場の雑音は薄れ、リスニングの点で許容範囲ギリギリのラインまで、比較的簡単に追い込めます。


 しかしこの最初のマスターディスクがボツった理由は、当初の主旨から微妙にズレてしまったためで、製作側はひたすら初心にこだわりました。その時、このCDは明確に未来を見据えている事を感じました。製作側のコンセプトは、将来的に日本聖公会に連なる誰もがこのCD(シリーズ)製作に参加することであり、日本中の大小様々な聖公会の教会での賛美の瞬間を切り取ってCDに詰めていこうという志がありました。その精神性は現在の礼拝学・礼拝様式にあり、受動的な“参列”ではなく、能動的な“参加”なのです。それを最初のマスターでは完全に削ってしまったと、私は痛感しました。そこで音楽CDに近づけるという概念を捨てて、録音されたものがどんな過酷な音であっても、その場の空気、礼拝に参加した人々の熱気と喜び、不安な中で歌い始めて次第に高まっていく“輝き”を明瞭にする事に主眼を置き、改めて作業を開始しました。その結果、2009年8月25日に完成した2回目のマスター・ディスクが、『今日もまた新しく』になりました。

 この作業に要した作業時間を総計すると2週間ほどですが、実際の期間としては諸事情で4ヶ月以上もかかっています。その間私は、住居転居に伴う自宅スタジオ移転があり、約2ヶ月間かけて新装したスタジオでの最初の作業がこのCDのマスター製作となりました。


 私事で恐縮ですが、新しいスタジオは父の仕事部屋を改装したもので、父の機材と私のものとを合わせて充実を計り、特にマスタリングには必要十分な機材が揃っています。主に、父が遺した全仕事(録音)をデジタルデータ化するために設計し、古くは半世紀前のアナログ・テープの録音を甦らせ、要望があればいつでも即使用可能な状態にすることを目的としてデザインしたためです。この設計が、今回のCDマスター製作にはバッチグーの環境であった上、新スタジオの実地試験としても最適の作業となりました。なんてタイミングがいいんだ! 主に感謝。



 音源選定の基準について

 このCDの音源は基本的に、21世紀に入って「礼拝での模様をデジタル録音」したものが基本になっています。2002年頃、中部教区の青年部が自主的に『古今聖歌集改訂試用版』全曲を歌って録音するという、実に素晴らしい草の根活動があったことを私も承知していますが、その録音が1つも入っていないのは、礼拝での録音ではなかったのが理由です。


 例外として、礼拝音楽委員会・担当者会議で新曲の譜面が配られ、その場ではじめて歌われた瞬間をとらえたものが幾つかありますが、これは“曲に命が吹き込まれる瞬間”としての貴重な瞬間をとらえたが故に収録されています。ま、私が決めたんじゃないんで、そういう風に製作側から説明されただけなんですがね。


 ところが実はひとつだけ、20世紀末にカセットテープで録音された音源が1つだけ含まれています。「生まれいづる時は」です。この録音のCD収録についてはハッキリ言いますが、私がゴリ押ししました。


 当初、「生まれいづる時は」の初出となった『古今聖歌集改訂試用版』出版後、礼拝で歌われたものを収録したデジタル録音がちゃんとあったのです。とはいえ、製作側の「これとは別に、実に素晴らしい初演録音が存在する。だが音質的には許容範囲外だと思われる。」というこぼれ話を耳にしました。ただ、それはカセットテープで録音されたものだというのです。音源はオール・デジタルでいきたいと考えていた製作側としては、マスタリングの段階でハネられる可能性の高いその音源を選考からハズしていたのですが、詳しく話を聞いてみれば、特にそのカセット音源はこの聖歌自体に深い関わりがあり、しかもその関わりによってCDへの使用を決断できなかったとか。なんだそりゃ?


 古今聖歌集改訂試用版の解説本『賛美は心に満ちて』をお読みになった方はご存じだと思いますが、「生まれいづる時は」は、聖歌集編纂に多大な貢献をなさった東京聖三一教会オルガニスト=加藤啓子さんが、姪子さんの突然の事故死に際し、夫・加藤望さんの綴った詩に曲を付けたものです。その曲は葬儀の際に初演されました。そして葬儀の模様を、亡き姪子さんのお父上が小さなカセット・レコーダーで録音したアナログ・テープこそ、正にそのマスターテープでした。


 初演時の貴重録音だとはいえ、ご遺族が個人的なメモリアルとして録音されたものであり、その一部を切り取ってCDにして大公開するというのは、ご遺族に対し無礼に当たらないだろうか?という危惧が製作側にあったのですが、結果的にこれは思い違いでした。


 ご遺族のご厚意で提供されたテープは、マジで40年前のライヴ海賊盤並の凄まじいもので、録音音量は小さく、音質も極めて悪く、カセット独特のヒスノイズ(シャーシャーいうヤツ)が聖歌を圧倒していました。確かに、普通に考えれば許容範囲外、正に場外ホームラン状態です。しかしそこに収められていた初演時の演奏は、100点満点の模範演奏と呼ぶに相応しく、文句ナシに隅々まで素晴らしかったのです(録音された“音”に関しては別。司式の宮崎光司祭の歌声がハッキリ収録されていて邪魔)。ここにこそ、今回のCDコンセプトにど真ん中ストレートで合致する精神性があると感じた私は、この聖歌い関してだけはこの録音が最適であって他に考えられない、だからこれで仕上げると逆に主張しました。


 それは多分、 母=中野慶子(歌手。NHK初代うたのおねえさん)と共にコンサートで何度も演奏してきた経験があり、曲についてよく知っていた事も一因だと思います。又、最初に提供されたデジタル録音では、息つく間もないインテンポの奏楽で終始フォルテで歌う正調(?!)発声の合唱でガンガン行ってしまうパワフルな演奏で、これには非常に違和感を覚えていました。この聖歌はメゾピアノが良いのです。そしてセンテンス毎に少し“間”を設けることで歌いやすくなる上、優しく、美しく、言葉が心に染みるのです。そういった適当な演奏している録音が、他になかったのです。

第510番「生まれいづる時は」
(マスターテープとなったカセットの音声)

※ 高音域をほんの少し補正しています



 というわけで、CD収録曲の選定基準は“デジタル録音”でしたが、この聖歌だけは特例とさせてもらいました。実際、音質の悪さはピカイチ(?!)で、周波数分析してみると4KHz以上は録れておらず、その上は全てヒスノイズで埋まっています。ですからノイズをすっかり取り除いてしまうとAMラジオ並の音質にしかなりません。それでも良しとしたのは演奏があまりに素晴らしかった事、これに尽きます。この聖歌が現実の“音”になり、明らかにそこに集った参列者によって曲に命を吹き込まれた瞬間をとらえており、葬儀という悲しみ中にありながら悲壮感を吹き飛ばす、様々な“生”(せい)の力の自然な一致を感じるのです。ここにはサムシング・スペシャルな「音楽の歓び」が満ちています。


 とはいえ、この音源をマスタリングしている間、冒頭でお話しした『UNITY!』製作時のディスカッションを思い出しておりました。なにやってんだオレ…。素晴らしい音楽は、一瞬にして心をチェンジさせるのですね。



 展望

 今後、シリーズ2枚目が製作されるとすれば、2010年以降に録音される音源も多数収録されていくことでしょう。又、全国の礼拝音楽委員会が主導して、津々浦々の聖公会の教会の“賛美の音”が集まるほどスポンティニアス(自発的)な運動に発展すれば、礼拝を録音する際の留意点を明記しておくことは誠に有益と考えます。



(1)「礼拝を丸ごと、毎週のように録音しましょう」

 自分の教会の礼拝で、素晴らしく感動的な賛美の一瞬を捉えるのは容易ではありません。が、毎回記録しておいたとしたらチャンスは無限大です。例えば毎主日の1時間半程の礼拝を丸ごと記録するとして、フィールドレコーダーの高音質モード(MP3/192〜256Kbps)で録音するとして、ファイル容量は200MBほどに収まりますから、CD-R1枚には3週間分の全主日礼拝の音声が記録出来ますし、1年間やっても約17枚分です。DVD-R(4.7GB)に保管しておくなら3枚以内で済みます。勿論、ノートパソコンのハードディスクに全て溜めておけるサイズです。保管場所にも大して困らないかも。



(2)「デジタル機材で録音しましょう」

 礼拝をテープの入れ替えなしに丸ごと録音可能なものというのは、最近まではDAT(Digital Audio Tape)か、VTRのHi-Fi音声でしか出来ませんでしたが(MDのLPモードは音質最低でCD化不可。カセットテープの方がナンボかマシなので絶対にダメ)、カセットウォークマンより小さいフィールドレコーダーの登場で完全に切り替わりました。ですからやはり、録音にはフィールドレコーダーが最適です。これなら搭載するSDメモリーカードの容量によって、丸一日録音することだって出来ます(誰がそんなことやるんだろう?)。但し、録音モードは標準モードではなく、高音質モードでなければダメです。ちなみにビットレートはMP3の192Kbps以上であることが望ましいです(CD収録のフィールドレコーダー録音音声の多くが128Kbpsでした)


 但し、よく政治家の番記者が使っている“ICレコーダー”と間違えないで下さい。これは基本的に音声専用のものなので、礼拝を録音するにはかなり問題がありますし、大体に於いてモノラルですから最終的には1930年代の蓄音機並の音質になってしまいます。中にはステレオで録音できるICレコーダーもありますが、実際に使用して聴いたところ、残念ながら低音が全く録れません。携帯電話の録音機能(ボイスレコーダー/ICレコーダー機能)も同様です。これは音がヒドく、CDにして使えるレベルには到底ありません。



(3)「合同礼拝やフェスティバルには積極的に参加しましょう

 大きな礼拝では、いつも普段では得られないない何らかの現象が起きるものです。賛美のパワーは増大することが多い。しかし、実を言うとそれを上手く録音するのは困難を極めます。参加人数が多ければ多いほど、聖堂が広ければ広いほど、何故か反比例するように録音環境はどんどん悪く、困難になっていくものです。一カ所で全ての音をキレイに録ることは難しすぎる。ライヴ・アルバム等でオーディエンス(観客)の声が入っているものですが、通常はこの音を録るためにホールの四方にマイクを置いて適宜ミックスしているものです。


 ですからこういう場合、私はフィールド・レコーダー(メーカーや機種は違ってもいい)を持って参加する複数の方々が集まり、独自に連携をとって録音することを強く推奨します。3人の連携の場合、例えば一人が聖堂の左端前方、一人が右端最後尾、一人が説教壇の元で会衆席に向かってレコーダーをセットし、回しっぱなしで同時録音をします。これら録音されたデータを集め、スタジオ作業で“ミックス”するわけです。このやり方ですと、驚くほど広がりがあり、空気感をもとらえた良い音になります。1つの礼拝でいくつもの違った録音があるという事は非常に有効です。技術的な話ですみません。


 今回のCDでこの方法を用いたのが「暗闇ゆくときには」で、3つの音声をミックスしています。大阪・川口キリスト教会の二階席中央に据えた(私の)一台が機材トラブルで片方の音声しか録音できておらず(モノラル録音になっていた)、それでもこの録音を何としてでもCD収録したいという製作スタッフの強い要望で急遽、祭壇に向かって右手のオルガン側でオルガニスト=鈴木隆太氏が録音したMD、左手最前列でトランペットを演奏した下地薫氏が録音したMDをお借りして、両者の音声を左右に振り分け、中央に私のMD音声を置き、ブレンドしてステレオ感を再現したものです。


 余談ですが、私がこの方法を用いた最初の作業がCD『NAOSHISM - 宮崎尚志メモリアル』に於ける告別式でのライヴ録音トラックでした。この時、東京聖三一教会の二階ギャラリーから祭壇に向かってステレオマイクが設置され、一部始終をデジタル録音していたのですが、音質は最良でもステレオ感(広がり)に乏しく、又、オルガン&聖歌隊から最も遠い場所でしたので、音楽が遠くにありました。音楽を大きく聞かせようとすると雑音が爆音(!!)になってしまいますから、聖堂の後方2カ所で録画されていたDVビデオの音声を拾ってきて、全てをスタジオでミックスして完成させたものです。



(4)「教区の礼拝音楽委員と連携を取り合いましょう」

 教区の礼拝音楽委員会が中心となってこのプロジェクトを包括的に進める事は難しいですが、委員は各教会での礼拝・音楽に関する情報を集約する事は進んでやってくれるでしょう(希望的観測)。要するに、委員の誰かが、どこそこの教会では礼拝での録音をやっているらしい、といった情報を掴んでおくのは重要です。勿論、委員はその実状を調査しなければなりません(要するに録音を聞くという事)。そして全国の礼拝音楽委員会・担当者会議などの機会に、是非とも報告をして下さい。お互いに報告しあえるような感じになれば、面白いと思います。 


 音楽は、時に感情的な喧騒も生み出す動機となることもありますが、それは理屈や論理や言語(左脳的な志向)を越えていく力(右脳的な志向)ゆえのものであり、人間に対し、強力な連帯感を促します。別に音楽が悪さするわけじゃーありません、人間が勝手にそう思うだけです。ですから、ウチの教会でも礼拝の録音をしよう、みんなで報告しあおう、そのうちウチの教会の賛美風景もCDに入ったらいいね…みたいな愉しみが生まれれば、日本聖公会は聖歌で結束を固めることが出来るでしょう。千里の道も一歩から。エキュメニカルは草の根からです。



 シリーズ第2団が製作されることになったなら、私も是非、再び参加させていただきたいと願っています。素晴らしい賛美のサウンドが多く集まることを期待しています。

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