はじめに

 1999年に書いた「シメオンの讃歌」を痛く気に入って下さっている聖歌集改訂委員会から「聖歌のように歌える主の祈りを書いてみてくれませんか?“シメオン”みたいなキャッチーなヤツ。」というお誘いがあったのは随分前の事です。「そうですねぇ〜・・・」とはぐらかし続けて1年ほど経ってから、「そろそろなんか出来ました?」と聞かれたので、そうですねぇ〜じゃ話にならないので、「どうもやる気が起きません。だからなんにも出来てません」と正直に答えました。その大きな理由は、現行の祈祷書(口語)になった際に語感に違和感があった事です。カトリック&聖公会の共同の主の祈りが出来た時も、その違和感は全く変わりませんでした。もっと正直に言ってしまいますと、飽くまで訓練された聖歌隊のためではなく、全会衆がそこそこの練習で聖歌のように歌えるものを作らねばならない(容易に馴染みやすい)「主の祈り」という命題に取り組む上で、以下のポイントがアカンかったんです。まとめてみました。



(1) 言葉のリズムが、文節毎に全く異なる。 同じ旋律を繰り返すことが難しい
(2) 文体が回りくどい。 10年間唱えていても、ちょっと覚えにくい何かがある
(3) “わたしたち”がいっぱい。 日本語としても乱用気味か。この5文字を発音するためには、かなり口と舌の素早い運動を求められる。よって一度に何度も言うのはうっとおしい!“みやざきみち”も発音が意外と難しい・・・うっとおしい!
(4) “節”が曖昧に感じる。 “わたしたち”が多いからかも?
(5) 文語に比べて長く感じる。 これは仕方ない・・・
(6) この文章から、数多くの論理的思考の複雑な絡みが感じられる。 凄い左脳的頭脳の集積。スリムでカジュアルで隙間のない、きっちりとした出で立ち。隙がないので、他の仲間=音楽などを必要としない。論理的には間違いない、しかし右脳=感性には訴えるものが少ない。


 主が直々に教えられたこの祈り、口語になってから妙にしつこさを感じるようになりました。特にこの祈りは、どうも気になる。基督者が最も大切にすべき祈りの基本だけに、なんか解せない。ハッキリいって、この文体、キライ!! ならば、まず私が好きになれるように曲を付けてみようではないか、というのが作曲の最大の動機となりました。




 作曲について

 まず主の祈りの構造を知るべく、兄である宮崎 光司祭から助言を頂きました。それを元に、いくつかに分けることにしました。(枠内左側は私が勝手につけたセクション名)


1: 呼びかけ 天におられるわたしたちの父よ
2: 讃美 み名が聖とされますように
み国がきますように
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように
3: 生活に関するお願い わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与え下さい
4: 日常に関するお願い わたしたちの罪をお許し下さい
わたしたちも人をゆるします
5: 救済に関する要望 わたしたちを誘惑におちいらせず
悪からお救い下さい
6: フィナーレ 国と力と栄光は
永遠にあなたのものです
アーメン


 「呼びかけ」というイントロを区切ったのは、そうしないと「讃美」の節が5行詞になり、曲として収まりが悪くなる可能性を最初から避けるためでした。例え5行詞でも、自然に歌える曲を付けることはできますが、私はこの文体がキライなので、出来るだけ作曲前にキレイに揃えた状態に整理しておきたかった。でないと、頭を悩ませちゃう時間が長くなるかもしれないでしょ。そうなると、もっとキライになっちゃうかも!自分がこれを好きになる為の行動なので、まず最初にそうしたのです。


 このうち「生活」及び「日常」に関する“お願い”の2ブロックを1つにまとめ、全5節として作曲を開始しました。尚、“お願い”と“要望”を分割したままにしたのは、「他人の過ちを許すからサ、オレたちの罪も見逃してよネ。そういう訳だから、甘い誘いに乗っちゃっても深みにハマらない程度に見ててくんないかなぁ〜。ついでにワルに絡まれたらすぐに助けてね!」みたいな(無茶苦茶な訳だけど)、“そういう訳だから”なんて感じに祈りが接続して、本来とは別の意味になってしまわないようにするためです。捉え違いで勘違いしてしまうなんてのは、実はよくあることですものね。曲がそれを誘導してどうする?!

 

 作曲は、全体の構成プランを立てることから行いました。



構成プラン

・「呼びかけ」は先唱者が歌っても良いように(昔風の礼拝みたいに)、独立したイントロを用意。
・それを受けて“歌モノ”の「讃美」が開始される。大きな跳躍のある、歌い上げる優しい旋律が現れる。
・それが終わると暫しの間があって、同音連打の多い(?!)「お願い」が静かに始まる。
・食べ物についてのお願いは穏やか、しかし罪についてのお願いは次第に切望に。
・その切望感は続く「要望」にも継承される。
・そして転調、フィナーレに「国と力と栄光は・・・」が歌われ、クライマックスを迎えて終る。



 このような構成プランを立てた後、実際の作曲作業にとりかりました。が、容易には運ばず思いっきり難航しました。何度も節毎に旋律を書き直し、プランに最も近い形に整えるまで3日間もの時間、集中して作曲を行うハメになりました。乱雑に書き記した最初の譜面(草稿)では、曲はまだD-dur(ニ長調)でした。私がよく使う、好みの調性です。歌詞つきの旋律だけを書き、ハーモニーはコードで記しました。何故なら改訂委員会で審議した結果、移調を要求される可能性があったためです。例えばD-durで書いた四声体の譜面を三度上げてFis-dur(F#/嬰へ長調)にしてくれという依頼があった場合、全ての音を三度上昇させることで解決するとは限りません。旋律が高くなれば、和音の配列も変わります。移調したらテナーがムチャクチャ高くなったとか、アルトが低すぎて歌えないとかいうことになります。特に「主の祈り」のように曲自体が少々長い場合、ハーモニーは後からシッカリ付けた方が間違いはない。


 さて、その譜面に書かれた音楽全体を見渡してみると、優しくポップなフィーリングがあり、決して悪い曲でも出来損ないの曲でもなかったのですが、私にとっては少々“ビミョー”なものでした。それでも一応、「シメオンの讃歌」のように歌えるチャントになっていたので、それを試しに委員会に提出してみました。すぐに旋律に対して多少の手直し要請があったものの、次回の委員会では早速審議(検討)してみることになり、結果、Es-dur(Ebメジャー)に移調して和声付けを行ってくれとのこと・・・すぐやりました。そして改訂委員会の長期間に亘る熟考の末、この「主の祈り」の聖歌集掲載が決定しましたとさ。委員会からの反応は、「うん。これ、イイよ」。何がイイのか判りかねますよ、その反応。



 この「主の祈り」は聴けば聴くほど、何か浮遊している感が拭えない。旋律が言葉の持つ意味と完全にシンクロしようとして常に後追い状態となっており、曲は節毎にさほど違和感なくキレイに繋がっているのに、一向に煮え切らない。私としては大地に足をつけた、シッカリした祈りの歌にしたかったのに、まるで湖水の上を歩くかのようです。これは客観的に見れば、単に作者である私のアテがハズレただけですし、それについて身勝手な不満をダラダラと述べているに過ぎません。ですが、この曲を作った後の脱力感は非常に大きいものでした。今の自分は、この程度のものしか作れないのかと! 自分が明確にイメージしたものを(時間をかけて作ったにも関わらず)満足に表現できないのでは、もう作曲家失格だと真剣に思ったものです。仕事ならクライアントが満足してくれれば、万事OKなのですがね。


 同時に真剣に「なんでこーなっちゃったのか?」を考えました。その結果、私はこの時の作曲方法が間違っていたのかもしれない、と強く思いました(自分に才能がない、などとはひとつも思ってないのがスゴいでしょ!)。旋律が言葉の意味にシンクロする、ごく当たり前の歌モノ曲の作曲方法は、チャントに於いては(必ずしも)容易に適用出来るものではなかったのかもしれないし、それが定型だと捉えるのが当然だ、と考えるべきではなかったのかもしれない。


 だがしかし、祈りにシンクロさせることで音楽に一体何を担わせようとしていたのか?自分の理想的な美学・・・みたいなものを「主の祈り」に投影したかったのかもしれない。あれこれ自己問答を繰り返した末、辿り着いた結論は、言葉に沿った音楽を論理的に構成するではなく、最初から“音楽が行きたい方向に自由に行かせてみる”ことでした。別の言い方をすれば、私が“音楽に身を任せる”ということです。キリスト教的には“主に全てを委ね、聖霊によって満たされ、主が曲を与えて下さる”というのでしょうが、私は音楽については決してそうは言いません。今まで“与えられた”ものの多くに、どーしよーもない、本当に下らないものがあったからで、もしもそれも主が与えて下さったとしたら、私にとっては“主はスゴく冗談好きで、人をからかってばかりの御方”です。しかも、与えられたそれらは全部破棄しているのです! これは、果たして罰当たりな行為でしょうか? いえいえ、とんでもない。


 私はこの「主の祈り」の作曲以降、それまでの方法での作曲を辞め、ギリシャの作曲家=ヴァンゲリスの言うところの「私は混沌の中から音楽が出現するためのチャンネルである」ことに転換しました。これは、別項で“チャネリング”と呼んでいるものです。別に“彼岸との交信”ではありませぬ。



 どう使う?

 主イエス直伝の「主の祈り」は、敢えてメロディーを持たないモノトーンで唱えたい、という意見も多く聞きます。それでも尚、歌えるモンなら歌いたい!というチャレンジ精神旺盛な方には、この「主の祈り」は適当かもしれません。“歌”なので、聖歌と同じように捉えて礼拝に用いると良いでしょう。しかし他のチャントとの兼ね合いは大事です。とはいえ、私としましては、次に来る「神の小羊」との整合性に重点を置いて考えれば良いと考えます。「主の祈り」と「神の小羊」、どちらも聖歌調に歌い上げるものにすることで、主の食卓を歌で彩るのは、とても素敵なことだと思うわけです。


 ただ、この「主の祈り」が好きだとおっしゃる方に、私はまだ出会っていません・・・反応を期待するべきじゃないんですがね。

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