初演: 2006年6月11日・横浜教区「林間バルナバ・Elpis教会コンサート」

 

 

 作曲プロセス

 古今聖歌集改訂委員会からメールにて、山野繁子司祭のペンになる2つの歌詞が送られてきたのは、私の38歳の誕生日の翌日、2006年2月17日でした。「作品1(2006年2月14日)」という詞は“重荷を負う人に安らぎを与える神よ・・・”という出だしで始まりました。短い三行詞×四番というスタイルで、一度読み通しただけで感動し、これに曲を付けたいと思いました。後日、改訂委員会から作曲についての打診があった際、「作品1」を私に下さい、私が作曲しますと願い出て、正式に委員会に了承していただきました。


 勿論、自分がやりますと言ったところで、出来上がった曲を聴いた委員会が「曲がピンとこねぇなぁ〜」とダメ出しされれば不採用です。山野司祭の素晴らしい詞も、聖歌集に載らなくなってしまう可能性があります。責任重大です。ですから力の入る面白いチャレンジです。とはいってもこういう場合、私は思いっきり力を注いだばっかりに結果として上手くいかなかった経験が多々ありますので、逆に敢えて“脱力”することにしています。まず、曲のイメージなど一切想定せずに、詞を何度も読みました。


 詞には適度な重量感がありますが、決して堅苦しくはなく、格調高い香りがします。最後の4節目は、心の深いところに訴える強いメッセージで締めくくられるという素晴らしい構成です。既に詞自身に静かなる力がある以上、今回は曲が一緒になって盛り上げるようでは、詞に内包されたメッセージは伝わらないと感じました。ここは二項対立のモンタージュ技法で(それは映画技法やて)メッセージを立体的に浮き上がらせたくて、静かな曲相が好ましいと思いました。


 この聖歌に関して、作曲プロセスとして語れるのは、本当はここまでです。曲が如何にして作曲されていったのか、という点に関しては、的確な文章にするのが難しいのです。ですがそれでは話にならんので、ヘンな文章になると思いますが、短くまとめて書いておきます。


 まず最初に。ここでの私の作曲法は“チャネリング”です…ほら、もうワケ判らない世界になった!! ギリシャの作曲家=ヴァンゲリスの言葉を借りますと「私は混沌(カオス)の中から音楽が出現するためのチャンネルでありたい」というのと同義になります。旋律(メロディー)をロジカルに組み上げて作り出すこともありますが、力を抜いて作曲する作業は、正にチャネリングに等しい。一体どうやるかってぇ〜と、カオスにチャンネルが合わせられるまで、静かに待っています。気分が浮いてきたら(どこぞから降ってくるのではなく、脳が浮いてくるんですヨ)、何かしら音楽を作り続けます。「作品1」に対して作ったメロディーは幾つあったかは覚えてないのですが、少なくとも20〜30は下らないかな。それらは、次から次へと全て捨ててしまうことを目的として作りますから書き留めません。こうしたチャンネルがピッタリと合う(チューニングが合う)までの間の作業は、(文章で論理的に表現できる)ごく普通の作曲作業だと思って下さると幸いです。


 チャンネルが合った時には、ピンとくるものです。そこからはもはや、沢山のラジオから一度に流れてくる多くの音楽から、1つだけを聞き取るみたいな感じになります。大体の場合、聞こえてくる音楽は最初から最後までキチンと出来ており、それを最終的に選別・選出するのは自分自身の意識的判断となります。結果、選んだのはペンタトニック・スケール(四七抜き・五音階)を基調とした“最も何気ない曲”でした。ハーモニーは後から大幅に手直しする事になるので、コードだけで記譜します。


 最初に出来上る譜面はメロディー+コード譜、そしてバスや内声の動きを部分的に記載したものです。その後、四声体の和声に体裁を整えて、キチンとした譜面に仕上げていきます。コードに沿って四声体和声に変換するだけでは和声法の禁則に触れることが多いので、ここで初めて、少なからず理論的知識を用いることになります。

 

 

 演奏について

 この聖歌はユニークなことに、前半(重荷背負うひとに〜)と後半(あなたは闇に光を放ち〜)では、譜面上ではテンポ感が2倍違って見えます。後半は倍のテンポになったのか?・・・みたいな。確かに和声のカデンツを見るまでもなく、音符の並びがギュっと詰まっているので誤解されがちですが、実際はそうではありません。4つの旋律のフレーズで構成された曲なんです。

 

 

 試しに全曲をインテンポで通して演奏してみて下さい。凄く忙しない、バランスの悪い曲になります。しかし旋律(Soprano)のブレス・ポイントまでを1フレーズ(Phrase)として捉え、フレーズごとに少し多めに間隔を取ってみると、概して弾きやすく、歌いやすく、しかも歌いながらにして歌詞を噛みしめるだけの余裕が出来ると思います。


 実はこの曲、アゴーギク(Agogik=テンポが一定でなく、速くなったり遅くなったりと揺れ動く演奏を指示する用語)の音楽を書き留めたものです。結果、短い歌曲として独唱で演奏すればコンサート・ピースになり得ます。しかしながら大勢で声を揃えて歌う場合はそのような事をせずに、フレーズの終わりの部分を若干リタルダンドさせるようにして、フレーズ間に於いて焦らずブレスできるよう、適当な“余裕”をとって下さい。そうすれば、歌詞を朗読するのと同じフィーリングで、自然に歌うことが出来ると思います。即ち、チャントを歌うのと同じように捉えて下さい。

 

 これもまた、私のリーダーバンド=Elpisによる、横浜教区・林間聖バルナバ教会でのライヴ演奏の録音があります。このライヴが、この聖歌の公の場での初演でした。この演奏は女声独唱のコンサートピースという赴きですが、先に述べたニュアンスは理解していただけると思います。粗い演奏ですが・・・。


「重荷 背負う人に」(演奏:Elpis)/日本聖公会 林間聖バルナバ教会

 

 又、最後の小節・最後の音符から冒頭にリピートする際は、譜面通りに行うと3番ぐらいで窒息します! 1番を歌い終わったら、リピートする前に一呼吸して、ゆったりと2番のアウフタクトに移行して下さい。私は当初、最後の音符にフェルマータを付けましたが、聖歌集では割愛されています(上記の譜面を参照)。個人的なフィーリングでは「その荷を共に担(にな)・・・」まで4/4拍子、「・・われ・・」で2/4拍子になり、最後の「・・・る」で4/4拍子の1拍目になる(必然的に「る」は二部音符+四分休符となります)が、演奏のフィーリングは最も理想に近い形になります。


 


 何故、このような“正確でない、曖昧な”部分を残した譜面にしたかといえば、全国の礼拝奏楽+聖歌隊の皆様から長らく質問を受けた「こころのとびらをひらくと」の最後の2小節間に起因します。奏楽者は、音楽が必要としているならば記譜されていないことも汲み取ってやります、できます、という“奏楽者之心得”を教えていただいたからです。ですから、パっと見で難しそう・・・と離れてしまう変拍子など、作り手の信念なんかを正確に記載するのではなく(実際、拍数を数えていたら心も入らない)、親しみやすい顔をした譜面にすることを心がけ、どう用いるか、どう歌うかは、現場にいる各教会のカントルに任せてることとしました。

 

 

 フレキシビリティー/アレンジメント

 改訂を行っていた“聖歌改訂委員会”には3つの譜面を提出しました。1つ目は聖歌集掲載のもの、2つ目は少々ハーモニーを簡素化したもの、3つ目は「必殺!簡易ギターコード版」(下に記載)です。このギター・コード版はメロディー譜にコードが書いてあるだけのもので、思いっきり和音を省いてシンプルなものにしたのですが(下に表示)、演奏したらまるで別の曲でした・・・。つまり、この曲は和声によってある種の楽曲的性格(キャラクター)が与えられているということです。

 

 

 逆に言えば、リハモニ(リハーモナイズ=旋律に別の和声を付けること)すると曲のキャラ(キャラクター)が変わってしまうほど、旋律は“薄いキャラ”であるとも言えます。ならば原曲のイメージを忘れてしまえば、如何様にもアレンジする事が出来ると思います。そしてそのアレンジによって旋律は新たな色を与えられると思います。もしもアナタが敢えて“猛烈にダサいアレンジ”をすれば、それに沿って旋律も強烈なニオイを放ってくれるでしょう!

 

 

 追記: 米国聖歌作家ダン・デイモンによる英語歌詞版

 2015年の北米讃美歌学会総会(Annual Conference of The Hymn Society in US/CANADA 2015)にて、21世紀の日本の新しい讃美歌の1つとして紹介された「重荷背負う人に」を気に入った米国の著名な聖歌作家ダン・デイモン氏は、その場で英語翻訳歌詞版「You give rest to all who come to you」を作りました。その楽譜は2017年、デイモン氏の讃美歌集「My Child Is a Flower」にて出版されました。

"You Give Rest to All Who Come to You"

 

 

 追記: 重荷背負う人のための着メロ

 2020年、友人の要望により「重荷背負う人に」のメロディーで、スマートフォンのための着メロ(Ringtone)を作りました。

Bonus Contents: "OMONI Ringtone"

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