初演: 1995年9月23日・東京教区フェスティバル合同礼拝(立教女学院体育館)

 

 

 作曲ヒストリー

※この項目に掲載する文章は、1998年の横浜教区礼拝音楽委員会・季刊誌「アンティフォン」、及びセヴンスデーアドベンチスト教団・月刊誌「JC」6月号へ寄稿した原稿を元に加筆・改訂したものです(2013年8月1日に一部改正)※


 1995年5月に作曲、同年秋に発行された『古今聖歌集増補版'95』(写真左)に収録された後、現行の聖歌集に引き続き掲載された、私にとって初めての“聖歌”となった曲です。


 「こころのとびらをひらくと」は、確かに私が作曲したものです。ですが長い間、果たしてこれは本当に“こうなって良かったのか?”と自問の日々を送りました。主日のミサを守るためにたまたま出向いていった教会で、この曲を耳にしたり歌ったりする事もあり、その度に“う〜む....”と悩みました。それほど、この曲を作曲した動機は大したものではありません。私は1995年当時、古今聖歌集の改訂作業が始まっているとか、増補版というのを出すのだとか、1994年に新しい聖歌の詞を公募したとか、そういった情報をまるっきり知らなかった…というより聖歌を作る作業には、未熟者の自分は安直に関わるべきではないと思ってましたから、避けて通っていたのかもしれません。


 当時の私は教会に深く関わることはなく、クリスマスとイースターが待ち遠しい一介の信徒でした。しかし1995年の5月、教会の姉妹から「この詩に曲を書いてみませんか?報酬は出ないしコンペになるのでプロの作曲家に頼むのは失礼かもしれませんが…ダメならいいですけどー」といった感じの内容の、一編の詩を添付した手紙を受け取ってからです。蓋を開けてみると日本聖公会の「古今聖歌集」改訂の作業の一環の“新しい聖歌”の作成のため、一般公募で選ばれた詩だということでした。私はその詩についてお気楽に書き上げ、他にも沢山応募があったらしい(詳しくはまるで知らない)、幾つもの曲の中から増補版委員会が選びに選んだ末、私の曲を選び、お陰で私は願わずして、わずか2週間で“聖歌作家”になってしまったというアイロニー。それが『古今聖歌集増補版'95』に“第19番”となって掲載され、お目見えした「こころのとびらをひらくと」です。


 この聖歌、作詞をした小柳貴子さんが1994年に書いた「心の扉を開くと爽やかな風に乗って、イエスさまの御言葉が聞こえてくる」という1節で始まる、まるで飾り気のない、しかもさりげない歌詞が印象的です。しかし作曲する上では特別な心の準備はせず、作曲の動機は、いかにも讃美歌っぽい、限りなく保守的なものを作ろうという漠然としたアイディアのみでした。そもそも最初から選ばれることなど考えておらず、“新しい賛美”について懐疑的だった私は、ギターでジャカジャカとやりながら歌うような明るく軽やかな曲が求められるのだろうと想定した上で、逆に伝統と格式を踏まえた厳格な作品(みたいな!)を放り込んで、増補版委員にスカっとさわやかな清涼飲料水みたいなの(コカコーラだな)をプレゼントしよう!という悪戯根性があったのです。


 詞は3番までありましたが字数が全く揃っていませんでした。そこで1番の詞にテキトーに合わせるような恰好で2日間かけて1曲書きました。それは少々、当初の目論見とは違っていて、それなりに気に入ったものになりました。何故なら、それまでの聖歌と比べるとずっと“さわやか”な仕上がりだったからです。決してモダンというわけではなく、プレイズ&ワーシップの音楽観からするとムチャクチャ古くさい…でもオレが新しい聖歌の選考委員なら真っ先にボツにするぜ、と言い切れた。一方、たとえ間違って選ばれてしまっても悪くないな…とも思ったものです。

 

「こころのとびらをひらくと」不採用版[Type-A]

 

 ですが締切日が翌日だったので、折角なら増補版委員会にお笑いネタをもっと提供しようと思い、より讃美歌モドキの完全なる“捨て駒”を用意しようと考えました。それは既に完成した曲の色彩(お笑いの色の濃さ)を際立たせるための「背景」に過ぎない曲であり、「この詩に対して、ありがちな古風な曲が付いたらこうなっちゃう」という恰好のサンプルとして作りはじめたのです。なんてったってコカコーラですから。今やコカコーラも“クラシック”なんて名前が付いちゃうんですからね…関係ない話ですね。


 捨て駒の2曲目は案の定、30分程度で書き上げました。今思えば正に“チャネリング”だったのですが、何も考えずにいたら指が自発的にスムーズに弾き初め、それを記憶して書き留める(たった1カ所を除いて)という単純作業でした。が、気が付くと、こともあろうに1曲目からチャッカリと借用、模倣した部分まであり、自分で見た限りは2曲並べるとより一層インチキな感じがしました。これは笑える。高尚な音楽ギャグだ、パロディー讃美歌だ!モンティー・パイソンだ!(意味不明)。特に捨て駒の2曲目など、思い入れも極めて薄いモノでした。しかしそれらを依頼主である教会の姉妹にFAXし、感想を聞いてみると「2曲目が好き、気持ち良い」と返事あり。その時は思わず「君はアテにならんなー!」と答えたのを覚えています。


 4〜5日後の朝、増補版委員から直々にお電話を頂きました。

委員会: 「貴方の曲を採用させて頂きたく存じます。」
みちく: 「そうなんですか。それはそれは有り難うございます。」
委員会: 「おめでとうございます。」
みちく: 「どうぞご自由に用いて下さい
       …ところで選ばれたのはどちらですか?」
委員会: 「2つ目の方です。」
みちく: 「…!! アテにならんなーっ!」

 

 私の書いた2つの「こころのとびらをひらくと」は、いわば「主役」と「脇役」という形であったにも関わらず、委員会の皆さんは笑うことなくマジメに、しかも脇役を選んだ…それが当時、私の感じた正直な気持ちでした。し、しかし…パロディー讃美歌が礼拝で歌われるだって?ギャグのつもりが完全に空振りに終わった!! きっと増補版委員会は冗談が通じないんだろう…というのは当時、マジで思っていた「本音」です。\(^o^)/失礼千万。


 一体、新しい賛美というものは、現代的な表現による等身大に近い賛美であって、古来の書法によらない詞のみならず、新しい音楽スタイルを伴うものではないのか? 結局、新しい聖歌って、何を必要としていたのか? 歌詞だけ刷新すれば良かったのか? 曲は“古い”スタイルでも“新しい”って言っていいのか? いや、これは不真面目な動機で聖歌作曲に着手した私に対する報いではないだろうか? だとすれば、この決定は私にとっての十字架か?…できれば背負いたくないんですけど…・だが作曲家たるもの、提示した作品は自らの子も同然。その親たる自分が責任を放棄して「この子はジョークで生んだのですから、マジメに取り合わないで下さい」等と言えるワケがない。ましてや既にこの子(2つ目の曲)は旅立つ準備が整っているのだから、無事に送り出してやらなければなるまい…私は心を決めました。


 さて、この曲が選ばれたとはいえ、厄介な事に全ての歌詞と旋律が適合していないという大問題がありました。その点を説明し、増補版委員に改詞のお願いをすると、「言葉使いを変えることは一向に構いませんので、曲に合うようにして下さい。」との至極冷酷なるご返答…歌詞が書けるんなら今頃作詞家やっとるわい!とは言いませんでしたが、作詞は大の苦手。1日中悩み続けて1カ所しか直せず、困り果てたのでミネストローネさん(現・私の妻)に頼んで直してもらい、兄の宮崎 光司祭(当時・府中聖マルコ教会司祭)に最終的に見て頂きました。そしてそれを小柳さんがチェックしてOKを出して、「こころのとびらをひらくと」は“完成”しました。尚、この時点では、私はまだ小柳さんとは顔を合わせた事も、話した事もありませんでした。




 この曲はたった1カ所、11小節目でコード=D7を用いている部分を除いて、自然に指が弾いた通りをほぼそのまま書き留めたものです、その“1カ所”だけは意図的に作ったとシッカリ自覚をしています。元々D-durの曲の中にD7を入れ込み、更にトップノート(旋律)に7th(属七)の音がくるように作ったら、結果的に「イエス様の御言葉が」の4小節間は旋律線がレ(D)からシ(H)に向けて半音階で下行する、非常に特徴のある(クセのある)メロディーラインが産まれました。


 

 さて、完成した曲は早速、横浜教区主催の集会で歌われたそうで、そこに毎年出かけていた知り合いの故・平野 修さんが「あなたの聖歌、歌ってきたよ!」と報告して下さり、こいつぁー本格的にヤバいなぁ〜と反省しはじめたのでした。背負った十字架が徐々に重くなってきた…。


 時を同じくして、知人のご家族が「こころのとびらをひらくと」を演奏したテープが届きました。お母様がピアノを弾き、まだ中学ぐらいだった次女が歌っているその録音を聞いて驚いたのは、テンポが非常に速く、本当に風が駆け抜けていくようだったことです。これを聞いて初めて、この曲はもう既に旅を始めているのだと実感して、少し十字架が軽くなったような…。


 増補版が出版された直後の9月末に「東京教区フェスティバル」が催され、合同聖餐式で「こころのとびらをひらくと」は古今聖歌集増補版'95・第19番として、初めて公にお披露目されました。実は私は当日、寝坊してしまったので礼拝に間に合わず、着いた頃には「あなたの、終わっちゃったわよ」と言われました。ですがこの初演時の録音は残っています。現在の用いられ方とは随分違った、かなりアップテンポであって、6/8拍子特有の軽やかさを強調した演奏になっています。

こころのとびらをひらくと・初演(1995年9月23日)

 

 その日、礼拝後に増補版委員の仲介で、作詞をした小柳貴子さんに初めてお会いしました。作詞者と作曲者のご対面は、初演の時だったわけです。


 同年の10月(11月?)、増補版出版記念と称して打ち上げが催され、その場で小柳貴子さんと再会しました。その後、小柳さんから手紙を頂きました(まだ電子メールが珍しかった時代なので、手紙という手段は至極普通だった)。


 手紙の中で小柳さんも、「こころのとびらをひらくと」の詞をごく短時間で書き上げ、それが増補版に取り上げられることになり、あれよという間に曲がついて教会で歌われる…という事実にかなり戸惑いがあったとのこと。意識としては単に授業の課題として何気無しに提出したものであって、自らの信仰的な意味合いはない、しかも自分はまだクリスチャンでもなければ毎週教会に通っているワケでもない、そんな自分が結果的に“聖歌”を書いたということは、果たして正しい事なのだろうか?…と。この時初めて知ったのは、「こころのとびらをひらくと」の作者2人は同様に、聖歌を書いたという事実に対してずっと悩んでいた、という共通項があったのです。


 総合すると、この曲は詞/曲共に、気負いなしに何気なく、僅かな時間で書かれたものであり、作者自身ですらそれを「自分が作った」のだと自覚するのに多少の時間を要したのです。もしかしたらこれが聖書の言う“聖霊の働き”かもしれない。だとしたら私達が神様のチャンネルとして用いられた事を素直に喜んでいいのかもしれないね、と、小柳さんと話しあったものです。

 

 

 皮肉な学習

 この曲が目論見に反して選ばれてしまった事から、私は短期間に実に多くの学びを得ました。

 『増補版'95』が出版されて以来、この新しい聖歌は日本各地の礼拝で用いられ、徐々にヒットしていったそうです。私はこの曲が愛唱歌だとおっしゃる年輩の姉妹に理由を聞いてみましたら「曲が良い。何の違和感も感じない。スっと心に入ってきた聖歌。今まで作られた新しい聖歌にはほとんどなかった」とおっしゃいました。もはやここまでくると「アテにならんなー!」とは無責任なので言えません。しかしここに私なりに“新しい聖歌”についての現代の在り方、回答があるように感じました。


 「讃美歌21」を筆頭に、それぞれの教団・教派公認の讃美歌集が徐々に改訂されていく中、聖公会も前回の改訂作業から半世紀ぶり、約14年の歳月をかけて改訂が終了しました。改訂には新しいものが増える代わり、それまでのものは掲載から外れる事もあります。神学や賛美の在り方は年と共に変化していくようですが、60年も信仰生活を続けてきた兄弟姉妹にとって、個人の信仰は「時」に左右されず、主から“永遠の命”を得て生き続けているものだと感じました。その信仰の傍らには常に聖歌/讃美歌があった…。そういう人生を経てきた兄弟姉妹たちにとって、今までの新しい賛美の歌は信仰生活に於いて少なからず新鮮さは感じていたとはいえ、若干のストレスもあったことも学びました。時代々々に於いて最も新しい賛美は、そういった年輩の兄弟姉妹にとって“少々やり過ぎた”という事実があった事は間違いないことでしょう。更にそれが高じて、現在ではジェネレーション・ギャップすら呼び起こす動機になっている現場すら目にしました。「こころのとびらを…」のような“保守的な”曲が日本聖公会に於いて受け入れられたのは、ある時代と次の時代の人々の心を繋ぐ聖歌が“新しい賛美”には少なかったのかもしれない…つまり、以前からパイプラインとなるべき新しい賛美が数多く作られてきたにも関わらず、それらがキチンと理解されていなかった為、年輩の兄弟姉妹は、これは若者が勝手にやっている賛美の仕方に過ぎないと解釈し、徐々に解離し、結果として昔からあるものを(誰にも邪魔されないように)頑なに守っていくしかなかったのではないかと気付かされたのです。何故なら聖歌は、個人の信仰の証の代弁者でもあるからです。


 極端な話をしますが、聖公会に於いて新しい賛美は“フォーク調”だと思われている節が強く感じられ(※注:これを書いた当時の個人的な印象です)、古今聖歌集(1954年版)は“クラシック調”だとする向きがありました。両者には歌詞の内容云々はともかく、楽曲に極端な“重量差”があるというのです。故に、ヘヴィー級のハイドン、ヘンデル、ベートーベン、メンデルスゾーン、アーサー・サリヴァン、ヴォーン・ウィリアムス等と同等の聖歌として認めるには、新しい賛美はライト(軽量)過ぎたのです。そういう観点で見ると「こころのとびら…」は明らかにヘヴィーとライトの中間、いわゆる“ミドル級”に位置しており、その立ち位置が受け入れやすい理由だったのかもしれません。(自分で言うのもナンですがね)


 ここで得た学びは私の“賛美”の考え方に大きな影響を与えました。1996年から2年半かけてプロデュースし、1999年にリリースした超教派賛美アルバム『UNITY!〜サイバースペースのクリスチャンたち』(写真右。Universal Musicよりリリース)は、その学びの1つの成果です。因みに「こころのとびら…」はこの『UNITY!』にも収録しました。聖歌集の譜面のイメージから離れ、カルーゼル・オルガン(メリーゴーラウンドなんかで流れてくる巨大なオルゴール・サウンド。パイプオルガンを基本にドラムやシロフォンが入っているものが多い)の調子っぱずれな伴奏に子供の歌(歌:Little Lily)を乗せて、教会とは別の立ち位置からこの聖歌を自ら検証してみたのです。

 

 聞いたことがない方は、良い機会ですから是非、聞いて下さい。『UNITY!』公式サイトがあるCCMCホームページ(http://www.ccmc.ne.jp)の「Projectサポート」内の試聴コーナー(Audio)で、30秒ほどお聞き頂けます。

UNITY!公式サイト "CCMC"

 左の“CCMCバナー”をクリックしますと、試聴コーナーに直接繋がるようにしました。ソングリストの7曲目、「心の扉を開くと(うしマ〜ク!版)を選んでクリックして下さい。

 

 

 簡易アナリーゼ

 改めて自らこの聖歌を解析(アナリーゼ)してみると、面白いことに気付きます。和声的にトニックに解決することなしに(経過和音として弱拍にトニックが置かれる点は除外します)、全16小節を歌いきる息の長いメロディーは、ボサノヴァ王=アントニオ・カルロス・ジョビンのようであります(自画自賛、都合良く言い過ぎ)。更にF#で始まる旋律線が大きな弧を描いて飛躍し、15小節目でDに軟着陸する美しい形を成しています。


 又、全体を通じてニ長調(D-Major, D-dur)の調性感を決して失うことはない反面、副五度和音を適度に利用して、転調せずに擬似的にイ長調のスケール上を通るという茶目っ気があります。お出かけして、ちょっと寄り道してお買い物、んでもって目的地に向かう、といった感じでしょう。しかしその筋道はシッカリしていて、不自然さは全くありません…ほほぉ〜、よく出来てんじゃん。自分で書いた意識があんまりないので、平気でそんな事が言えてしまいます…何て無責任な!!


 尚、下の譜面は1995年に作った簡単なコードを記した歌譜です。コードはギターで奏楽する際には重宝すると思います。カポしにくいコード感だし、何より頻繁なコードチェンジで左手が忙しいんですがね。


 

 

 演奏について

 これまで最も多かった質問に“演奏のテンポ”があります。私は常に自由にやって良いと答えていますが、「焦りすぎないように、急ぎすぎないように」というのが本音です。譜面は6/8拍子で記しましたが、これは単に3/4拍子で書くと全32小節、最後の4小節はタイで結ばれたDの付点二部音符4つという尋常でない譜面になり、12/8だと相当読みにくい上、凄くゆっくりと演奏しなければならず、聖歌の譜面としてふさわしくなく、何より難しく見えるなど、“見栄え”が悪かったからです。


 ここまで書けば何となくお分かりと思いますが、この曲は実はワルツです。ワルツなのに6/8拍子の顔(譜面)をしている音楽です。


 原作者の意図に忠実にといった趣向でなければいけない!ということでしたら、3拍子に書き直して頂いても別に結構です。ズンチャッチャのリズムで演奏すると、可愛く楽しいです。しかし、それが礼拝で用いられるに相応しいかといえば、そうでもないと思います。故に、6/8拍子の表記が最適だと考えています。歌詞にあるように、風のように流れます。

 

 もうひとつ、質問が多かったことは、最後の2小節についてです。旋律と和声の動きは15小節目で終了し、最終16小節目は全ての音譜が前小節からタイされているだけなので、インテンポのまま音を伸ばしているだけで良いのか不安になる、との声が多かったのです。『増補版'95』が発行されて間もなくの事ですが、東京のある教会のオルガニストは、この2小節間はそれまで歌ってきた内容を反復し思い返す最も大切な間である、とご説明なさっていました。これには驚いた!素晴らしい考えだと思いました。又、別の教会のオルガニストはこの2小節に内声(Alto,Tenor)の動きをつけ、D - G - D(I - IV - I)という“アーメン終止”を付加していました。奏楽者の聖歌理解・解釈が問われる部分だと言われて久しいこの“謎の2小節”…しかし作者としては深い意味はありません。いきなり身も蓋もない事を言っているようですが、そういう曲として出てきたものを書いたのですから、ホントに何もない。故に、前記のオルガニスト御両名のやり方、解釈は、どちらも至極正しいのだと思います。ただ、「この2小節間で、あなたの信仰が試されます!」なんてことは、多分ないと思いますよ(^_^)。…まぁ、そういうことにしといて!

 

 

 フレキシビリティー

 先述しました通り、この曲はリズム的に2つの顔を持っています。ですがそういう音楽は既に現存しています。北欧の舞踊音楽には、これと同じ感覚の音楽がゴシャマンと存在しています。そういう点で、厳かに礼拝で歌うだけにとどまらず、アルペン風に舞踊音楽として演奏するのも似合いますし、私自身、CD『UNITY!』で披露しているように、メリーゴーラウンドのカルーゼル・オルゴール風に演奏するのも似合います。試しに色々にアレンジして楽しんでください。ボサノヴァで演奏するのも良いでしょう…またカルロス・ジョビンで押すのか!!

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