はじめに

 聖歌第554番「あらしの日にも」はそもそも、日本基督教団・葉山教会(神奈川県・三浦郡葉山町)の新礼拝堂献堂記念として1999年に作曲されたものです。チューンネーム【HAYAMA PRESBYTERIAN】とは改革長老派教会である葉山教会の事を指しています。そしてこの聖歌には親子三代にわたるファミリー・ヒストリーが隠されています。




 HAYAMA PRESBYTERIAN〜葉山教会の歴史

 神奈川県・葉山町で唯一の日本基督教団・葉山教会は、“仙元山”の麓に建っていた小さな群れでした。葉山町は海と山に囲まれた土地で、特に海の近辺は幾つもの小さな山に囲まれた地域です。ですから山の麓となれば、県外の人々にしてみれば「ひっそりと建っている」と形容するのが相応しい程でした。


 同教会は大正の頃に建てられたそうで、その当時は現在の森戸海岸通り付近にあったと伝え聞いています。第二次大戦の敗戦後、教会はそこから約400mほど内陸、仙元山の麓に移動したと言われ(※要出典)、牧師館はGHQのカマボコ兵舎でした(クォンセット・ハットと言われるカマボコ兵舎は、葉山〜逗子の海岸線がGHQに接収された折に、軍の様々な目的のために各地に数多く建てられたとみられる)


 しかし1967年の初夏、教会はその“仙元山”の頂に移設され、地域きってのランドマークの1つとなります。その陣頭指揮をとったのが当時、日本基督教団・富士見町教会(東京)の副牧師であった宮崎豊文牧師…私の祖父です。




カマボコ兵舎を利用した牧師館の前に立つ宮ア豊文牧師
(1964年に撮影された8mmフィルムより)



 宮ア豊文牧師は、東京で1つのミッションを与えられました。無牧(常駐牧師不在)ながらガンバっている葉山教会へ趣き、教会運営を軌道に乗せよと。しかし貧しい小さな群れは常任の牧師を雇えるだけの資金力はありません。しかしミッションを受けた宮崎牧師は同教会の管理牧師を無給で引き受け、東京から通い続けながら開拓伝道さながらに精力的に町内(町とは言えども広さは市レベル)を歩いて巡り、力強くキリストの道を伝え、宮崎牧師のおはなし(説教)を聞きたいと教会に集う人々を増やしていきました。葉山町は御用邸がある事からも分かる通り、古くから豪族が住み、神道の風習が根付いている土地柄で、伝道するには大変困難だったと牧師は回想しました。


 小さな小さな群れであっても、そこにイエス・キリストの道を信ずる人たちがいるならば、そこに彼らの祈りの場を長期的かつ安定的なヴィジョンをもって作らねばならない…そして宮ア牧師は、「山上に主の教会を建てる」というビッグ・プロジェクトに着手します。それは葉山町に存在する、海と山とに恵まれた環境が生みだす(ある種の)民族的気質…「高きところへの羨望」を熟知し、それを最大限に活用したアイディアでした。これなら信徒もそこに行くのがもっと嬉しくなる、信徒でない町民もそこに行ってみたくなる…。


 仙元山への本格的な山道入口にあたる高台(小高い頂)には、狭いながら平地があり、そこにはカマボコ兵舎がありました(※要出典)。これは飽くまで私の推論ですが、町の一部をGHQが接収した折、その場所にアンテナを設置して通信基地局にした跡地だったのではないでしょうか[※新情報によれば山頂には何もなく、最初に山麓のカマボコ兵舎を解体して山頂に移転してから礼拝堂建設に着手したという話もあります]。宮崎牧師はそこに狙いを定め、改めて道路とライフラインを整備し直し、教会を建てる。しかも御用邸のある地域ならではの厳しい条例が施行される中、山林地域への建築許可を取らなければならない、しかも資金ゼロ状態からのスタート…それは正に夢のように無謀なプロジェクトでした。不平を漏らす信徒もいたことでしょう、小さな群れですら分裂する危険性も孕んだ計画でした。しかし宮崎牧師と、牧師をガッチリ支えた長老達の強力なリーダーシップにより、最終的には嵐の日にも安けき時も一丸となり、1つ1つをクリアーしていきました。建設のための莫大な資金は、教会へ通じる山道(坂道)に隣接する土地を宅地造成し、宮崎牧師はあらゆるツテを総動員し、信頼のおける相手に宅地を購入してもらうことで礼拝堂建築の資金を集め、葉山町の協力を得て建築許可も取り、古い礼拝堂を畳む準備も進めながら1967年、「葉山教会」と教会併設の「ひかり幼稚園」をオープンしました。しかし礼拝堂の建設にほとんどの資金を注ぎ込んだため、牧師の住まいである「牧師館」は礼拝堂建設の歳に余った資材等をやりくりして建てられ、ひかり幼稚園はGHQのカマボコ兵舎をリフォームした簡素なモノでした。




仙元山に建設中の旧・葉山教会 (1967年に撮影された8mmフィルムより)



 そのようにして山の上には教会が建ち、近隣の森戸海岸からは山上の十字架が落陽に照らされて光り輝きました。そして無事に新教会の建設を終えた宮崎牧師は同教会の牧師として正式に赴任し、東京を去りました。山の上に建つ白いステキな教会は多くの人々を惹きつけ、そこで“さけび”のように放たれる牧師の熱いメッセージ(葉山教会報の題名は「さけび」だった)に心打たれた人々が次々に山を登って教会にやってくるようになり信徒数は増大。ひかり幼稚園は町内の若いご家族の憧れの場になり、又、教会が年に数回行った「バザー」は葉山町の1つの大イベントに成長していきます。宮崎牧師の伝道力、信徒の揺るぎない熱い志のみならず、山の上に教会を建てるという大英断は、結果として大成功をもたらしたのです。


 葉山教会に至る坂道は急勾配で、現在でも神奈川県内有数の激坂として知られ、自転車ツーリング愛好家の間ではヒルクライムの最難所の1つとなっています。その坂を、若い頃の重い肺疾患によって片肺が機能不全であった宮崎牧師は降りて町内を巡り、坂を上がって牧師館へ帰宅する日々を送りました(息をする度に吸気音が聞こえる…まるでダース・ベイダーのような祖父でした)。その激坂を登らなければ教会に至ることはなく、それは葉山教会へ毎主日に集う人々にとって試練である…と考えた宮ア牧師は、激坂を「決断の坂」、教会の建つ高台を「ピスガ台」と呼びました。




旧・葉山教会 (ポストカード「葉山教会の四季」より)



 エジプトで奴隷となっていたユダヤの民の大脱出、即ち“エクソダス(出エジプト)”を率いたモーセが生涯最期に登った山の名が「ピスガ」であり、自らは入ることが叶わなかった約束の地=イスラエルを、モーセはその頂から眺めたとされます。宮崎牧師にとってこのムチャなビッグ・プロジェクト完了への道のりは、さながらエクソダスを思わせたのは想像に難くなく、そして葉山町に骨を埋める覚悟で、そこを敢えて「ピスガ台」と呼んだのでしょう。


 宮ア豊文牧師は1981年に亡くなります。葉山教会は山上の教会となって僅か10数年後、後任の牧師を正式に招聘するだけの信徒数と資金力を持つ、立派な教会へと成長していました。




旧・葉山教会で語らう宮ア豊文牧師・登美子夫妻 (1968年に撮影された8mmフィルムより)



 同教会三代目の中村健一牧師が赴任して間もなく、牧師館の老朽化が進み、礼拝堂も野生動物の被害にあっている事、更に大地震への耐震性、台風等の風災害への対策など安全面を考慮して、建堂30年にして全面建て直しをされることとなります。同時に1999年8月1日の新礼拝堂が完成にあわせて、宮ア牧師の長男=宮崎尚志(私の父)と中村牧師と共同で1曲の記念歌が作られました。その歌は、山上への移転以来30数年の葉山教会の活動に敬意を表して、「ピスガの丘」(又は“SURSUM CORDA”)と題されました。




 ピスガの丘

 中村健一牧師が書いた原詞は当初、短い6節から成っていました。所謂「主の祈り」に則し、簡潔で品のある文語調でまとめられながら、“さけび”にも似たエネルギーのある文体は、葉山教会の歩みに敬意を表した深い想いで書かれました。それは第一節に中村牧師の思いが全て表現されています。


一.あらしの日にも やすけきときも
    こころひとつに 御名を崇めて
    ピスガの丘に われらつどいぬ

二.みこころを地に なさしめたまえ
    きよき御霊の 導くままに
    汝が御跡にぞ したがいまつる

三.いのちの糧を 日々あたえませ
    主の平安に 支えみたされ
    聖徒の国を つがせたまえや

四.底知れぬ罪 あがない主よ
    さばきのこころ かなぐりすてて
    汝がゆるしにぞ 生かしめたまえ

五.悪しきみちより われらを救い
    心をたかく   御国にあげしめ
    主のさかえをば あらわさせませ

六.くにとちからと さかえはつねに
    父・子・御霊の めぐみの神と(に)
    世々とこしえに ともにあれかし



 「ピスガの丘」とは、宮ア豊文牧師が呼んだ「ピスガ台」に由来するもので、先述の通り葉山教会を指しています。中村牧師は更に、宮崎牧師の息子である宮崎尚志の洗礼名が“ヨシュア”であり、それがモーセの息子と同じ名である事に気付き、雷に打たれたような強い衝撃を受けて明確なインスピレーションを得た(=聖霊が下った)と言います。


 さて、詞を受け取った宮ア尚志は大変感動し、すぐに作曲にとりかかっています。しかし6節では少々長いと考え、2節ずつを1つにまとめ、全3節の歌詞としてはどうか?と中村牧師に提案、その折に歌詞そのものにも手が加えられています。


一.嵐の日にも 安けきときも
    心ひとつに み名をあがめて
    ピスガの丘に われら集いぬ
    みこころを地に なさしめたまえ
    きよきみたまの 導くままに
    ながみあとにぞ したがいまつる


二.いのちの糧を 日々 与えませ
    主の平安にぞ 支え守られ
    聖徒の国を 継がせたまえや
    底知れぬ罪 あがなえる主よ
    十字架の血に われを洗いて
    ながゆるしにぞ 生かしめたまえ


三.悪しき道より われらを救い
    心を堅く   み国にあげしめ
    主のみ旨をば 行わしめよ
    国と 力と 栄はつねに
    父 子 み霊の 恵みの神に
    世々限りなく ともにあれかし     アーメン



 改訂された詞を受け取った宮崎尚志は、ごく短期間で曲を書き、完成させています。2節を1つにまとめるアイディアを提案した折には、メロディーは既に書かれていたと推測できます。




 先人の想いを後世に伝える讃美歌

 四声体の譜面に仕上げられた後に、私は葉山町にある実家に赴いて、父(宮崎尚志)から楽譜を見せてもらいました。シンプルな構造、無駄のない和声、そこにダイナミックに波打つメロディーが踊っており、作曲家なら一目で降参してしまうような「名曲」だと判りました。新世代の“Hymn”ではなく、古式ゆかしい“讃美歌”のもつクラシックな薫りと重量感は、より大きな礼拝堂となる葉山教会の過去と未来をつなぎ、先人の想いを後世に伝えるものとして作られた事を暗黙のうちに証していました。


 葉山教会のオリジナル讃美歌「ピスガの丘」は、新礼拝堂の献堂記念礼拝でお披露目されました。が、それ以来葉山教会でも歌う機会があまりなく、2〜3年経つと信徒の間でも「そういえばそんなのあったな…」といった状況になっていきました。


 「ピスガの丘」が書かれてから4年後、2003年に父・宮崎尚志は亡くなります。葬儀告別式に来てくださった大勢の方々への“香典返し”として、私たち(遺族)は父の未発表曲のデモ・トラックを中心に収めた限定CD『NAOSHISM - ヨシュア宮ア尚志メモリアル』を製作します。このCDに「ピスガの丘」を収録したことが、新たな展開を生みます。






 日本聖公会の故・澤邦助司祭がCDを手にし、特に「ピスガの丘」に深い感銘を受けたそうで、当時参加していた日本聖公会聖歌改訂委員会のメンバーに向けて「こんな素晴らしい讃美歌が広く知られずに眠っているのはイカン」とアピールしたものの、継続的に礼拝で歌われている“実績”があることが討議の机上に上がる最低ラインだと知るや否や、或る教区にアプローチして礼拝で使うように勧めたとか(生前の本人談)。その頃、改訂委員の新しいメンバーとなったのが宮崎 光司祭、すなわち私の兄でした。結果的に澤司祭からバトンを受けた兄を含め改訂委員メンバーが、これまた長く熱い論議を繰り返し、晴れて「ピスガの丘」は2006年に改訂・発行された日本聖公会聖歌集[2006年版]の第554番として掲載されるに至りました。現在、日本聖公会では全国的に広く知られた新しい聖歌です。



 尚、聖歌集掲載にあたって、文語調で書かれていた歌詞を現代語に近づけるべく、改訂されています。



 兄と話した折、「日本聖公会としてこの歌を聖歌として認定できない理由は1つとして見あたらない。礼拝そのものを歌っているが故に、どの教派でも季節を問わず礼拝で用いることができる優れた歌でもある。だが自分の身内の曲が増えていくのは後年、音楽的な完成度とは無関係なところでフェアではないと色眼鏡で見られてしまう事を懸念した。そういった個人的な心配事が無くなったのは澤司祭のアプローチとキャンペーンのお陰だった」と語りました。


 これは葉山教会を中心として親子三代が受け継いできた熱い想いを通じて、心を高く上げて主を讃美する歌なのです。



日本基督教団・葉山教会 (2022年6月10日、撮影:宮ア 道)




 さいごに

 町で教会をみかけた時、又は自分が通う教会で礼拝に参加する時、想像してみて下さい。何故そこに教会が建っているのか?といえば、最初にそこに教会を建てた先人達の熱い想いが今もずっと継承されているからなんです。その熱い想いって、2000年前に主イエス・キリストに心底惚れ込んだ弟子たちの想いと同じ。つまり教会には2000年もの間ずっと継承されている“スピリット”があるんですよ、カッコ良くない?




 

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