「古今聖歌集増補版'95」・第12番

 1995年に“増補版”にて掲載され、初めて日本に紹介された韓国の聖歌です。この『古今聖歌集増補版'95』は英国〜米国ミッションによって成った日本聖公会にとって、英米への意識/配慮によるフィルタリングなしに、独自取材で世界各国の聖歌を収集・分析し編纂しようと試みたチャレンジングなミニ聖歌集であり、現行の(口語)祈祷書による礼拝に違和感を拭えずに伝統と格式を重んじるあまり頑なに現状維持を続けんとしていた信徒さん達の心にすら、「大きな換気口」を取り付けてフレッシュな空気を入れたものです。それまで知ることもなかった(気にも留めなかった)欧米以外の国の聖歌が多数入っています。勿論、こういった趣向は日本基督教団讃美歌委員会の『讃美歌21』が国内キリスト教界では先駆となりましたが、聖公会でもルーテルでも福音派系でも同様に、ワールドワイドに自分達の教派で産まれた聖歌を取り上げ、教義にも沿った聖歌集を作りたいと思って奮闘している最中でした。その中で聖公会は僅かな人数で“増補版委員会”を編成し、かなり迅速にミニ聖歌集を作ったのです。これは大きな一歩でした。


 増補版'95には「来ませ来ませ」と、第9番「かみのかたちに」(羅運栄・作)の2つの“韓流聖歌”が収録されました。ところが両方ともマイナー調でやたら重厚。2006年発行の「日本聖公会 聖歌集」では韓流聖歌は数多く収録されていますが、特にこの2曲の“お先真っ暗感”は突出しています。そういった作風にも関わらず、この2曲の楽曲的な完成度の高さには舌を巻くものがありました。選び抜かれたであろうメロディーは研ぎ澄まされて高いエネルギーを有しており、ついでに構造的には伝統的な欧米の聖歌のスタイルを踏襲して取っ付きやすいのがポイントでした。



 日本のキムチ

 さて、この「来ませ来ませ平和の王」は大韓民国・大韓聖公会に於ける教会音楽の重鎮であられるイ・コニョン(Geonyong Lee。イ・コンヨンと呼ばれることもある)先生の聖歌です。イ・コニョン先生とは一度、東京でお会いする機会に恵まれました。日本で新しい聖歌集を作る上で、大韓聖公会ではどのようなスピリットで聖歌集を編んだか…といった趣旨でイ・コニョン先生から直接お話を伺う勉強会みたいなものでした(記念礼拝も行われた)


 その後、イ・コニョン先生と奥様を囲んでの懇親会で鍋料理のお店にて鍋パーティーに。様々な鍋がある中、1つだけキムチ鍋が。しかも参加者のどなたかが先生と奥様にとって差し上げており、先生はその方への配慮から食しておられましたが、どうも表情が痛々しい。私は先生の隣へ行き「どうなされましたか?お口に合わなければご無理なさらないで下さい。このキムチは日本のキムチです、辛くて酸っぱいですから。」と声をかけましたら、相変わらず痛々しい表情のまま、日本語でこう言いました。




「ニホンのキムチっ…、カライだけっ!」
by Geonyong Lee



 実はイ・コニョン先生の奥様は日本語が話せるためか、先生も僅かとはいえ日本語を心得ておられました。しかしこの的を得たストレート過ぎる返しに私は爆笑してしまいまして、そこから奥様に通訳をして頂いて、暫くの間ですがキムチについて話し合いました…って聖歌の話じゃないんかいっ! とツッコミが入りそうな展開。


 キムチの味が韓国と日本では全く違うのは、とうがらしの質ではなく、作り方の違いでもなく、寒く厳しい冬の朝鮮半島の地で出来る白菜にあるのです。キムチに使う韓国の白菜は固く、生のままでは食べにくいのですが、そのかわり甘い。日本の柔らかい白菜よりもずっと甘いので、韓国のキムチは甘味があるのです。日本のキムチはいわば“漬物”の一種ではないでしょうか。私は韓国の人ですからキムチは幼い頃から食べ慣れています。朝鮮の人は皆そうです。しかし、だからといって皆が辛党というワケではないのです。私達がキムチを食べるのは、それがとても美味しいからであって、辛いから食べるのではありません。

 私たち韓国人には、同じキムチを食べてきた朝鮮の仲間達がいます。かつて悲しい出来事があって、朝鮮は今は北と南の2つの国に分かれています。南が韓国です。私は同じ民族が再び1つの国になることを願っている一人ですが、残念ながらそれを望んでいない人も居るようです。それはとても悲しいことです。1つであったものが1つでなくなっているのですから。ですから神様に祈り、願い続けたいのです、1つのからだにしてください、と。

by Geonyong Lee(談)

 なるほど。地響きに似た、絞り出す悲しみの叫びのような暗いメロディーを持つ『来ませ来ませ平和の王』には、そういった願いが込められていたのか。この聖歌、多分オラトリオか何か大きな作品の1曲ではないかと思いますが、詳しいことはよく知りません。先生の言葉には、朝鮮問題は国家間での解決を見るのは途方もなく長い時間がかかる。個人レベルでは尚更。だから主イエスの再臨を待ち望み(これで一発解決)、戦争等の手段を放棄して本来あるべき姿に戻りたい、という気持ちが込められているのですね。



 クンジュエ・ハムソン

 でも増補版に収録された2曲の韓国の聖歌が重く暗いので、普段の主日礼拝では使いにくいという教会もあったんじゃないでしょうかね。しかしですね、韓国の音楽は裾野が広く、しかも深いのです。だからその2曲は多分、たまたま深く暗いものだっただけなんですね。


 私は以前、韓国の民主化運動家たちが歌って広まったというプロテスト・ソング「クンジュエハムソン」(「群衆の歓声」といった意味。キム・ウイチョル作)という歌を教えてもらい、これに日本独自の和声付け…要するにオルガンで弾ける四声体のアレンジを行ないました。この曲は聖歌ではありませんが、盛り上がり湧き上がるメロディーは典型的な“アンセム”で、切なさの中にも明るい希望に満ちた勢いがあり、大陸的なセンスがあります。しかも楽曲的な整合性/完成度は誠に素晴らしく、まさしく「聖歌」でした。それが民主化運動のプロテスト・ソングとして大いに受け入れられ、しかも群衆の中で歌われていたのですから、そいつぁースゲーよ。


 又、丁度この頃、韓国でトップの3人組ラップ・グループ(メタルとラップが合体した魅力的なダンスミュージックだった)が日本に紹介され、米国のトップ・ラッパーと肩を並べる世界レベルのサウンドにビックリしたものでしたから、韓国の音楽的要求度の高さ、世界に追いつけ追い越せといった勢いは、K-POPブームが起きるずっと前から、私には無視できないものでした。


 ちなみに和声付けした「クンジュエハムソン」は私自身で“インストゥルメンタル・デモ音源”にし、1998年にCD『UNITY!〜サイバースペースのクリスチャンたち』の製作中に作られ、広く無料配布されたデモテープ集「MCDプロジェクト・デモテープ集Vol.3」に収録したところ、多くの方々からスゲー良い曲だ、これは何だ?と大反響を頂いたものです。なんといってもいい曲でしたからね。


 後に大韓聖公会から立教大学チャプレンとして派遣されていらした柳時宗司祭に、この曲について詳しく伺ったところ、「実は私よりずっと上の、韓国の或る世代にとっては、とてもとても“印象の悪い歌”なのですヨ」と教えて頂きました…そりゃーそうだろうな。


※この曲は作者自身が歌っているライヴ映像や、街角での合唱を撮った映像等がYouTubeにもあります。翻訳サイトで日本語の「群衆の歓声」を韓国語に訳し、ハングル文字をYouTubeにコピペすると出てきます。





 「イ・コニョンの主題による幻想曲」

 話を戻しましょう。聖公会では長らく「司祭は男性に限る」というスタイルが頑なに守られてきましたが、1998年にようやく“司祭職に男女の区別なし”となり、女性の司祭が誕生しました。その翌年の1999年1月6日、東京教区では初めてとなる女性の司祭が正式に任命される“司祭按手式”が大々的に執り行われるに当たり、我がElpisが礼拝奏楽の一員として召集されました。その折、按手を受ける笹森田鶴執事(現・司祭)のご希望を元に、「きませきませ平和の王」を入堂プロセッションの音楽にする提案がなされ、結果としてその聖歌を主題とした変奏曲作曲の依頼が私んトコに来たワケです。当時聞いた話によれば女性の司祭容認には反対する方々も聖公会の中には多くいらっしゃって論議が激化しており、「日本聖公会分裂の危機」にあったとのこと。故にこの聖歌の歌詞「来ませ来ませ平和の王、一つのからだにしてください」は、聖霊よ下りて我らを一つとなしたまえ…といった、司祭となられる女性達の切なる願いにパーフェクトに合致したとのこと。


 で、その時の私といえば、2年半越しで製作していたCD『UNITY!〜サイバースペースのクリスチャンたち』のプロデュースが大詰めで大忙し、覚えている限りでは3日間でオルガン、フルート×2、オーボエ、打楽器による作品「イ・コニョンの主題による幻想曲(Fantasy on a theme by Geonyong Lee)」を書き上げました。この聖歌の短い主題を使ったミステリアスなムードの幻想曲ですが、作曲中は先生の書かれたシンプルな旋律が持つ“芯”の強靭さに本当に感服し、そして聴き手が求める音楽の本質 (装飾をすべて取り払ったもの) とは「メロディーそのものが持つエネルギー」なのだと改めて思ったものです。幻想曲を3日間で書き上げることが出来たのも、主題となるメロディーの強さがあってこそでした。


宮崎 道:「イ・コニョンの主題による幻想曲」


 

 キムチの話から、同じ民族でありながら別れ別れになっている2つの国家=南北朝鮮の統一実現を主に祈る、その切実な思いをお話になられたイ・コニョン先生。この聖歌は朝鮮民族の融和への祈りに他なりませんが、「平和の王たる神よ来りて、別れ別れになった我らを1つに合わせて下さい」という詞には誰もが共感出来るでしょう。そもそも主イエス・キリストもユダヤの民のためにいらしたにも関わらず、その道は全世界に広まったように、作られた背景や思い、願いは、当事者(作者)の思いを越え、人々の間で響きあうものなんですね。この聖歌を歌うとき、十人十色、それぞれの切なる思いを込めて歌うんでOKなんス。そもそもそれが“讃美”というものなのですから。


 で、私はこの聖歌の譜面を見る度にイ・コニョン先生を思い、そしてあの声を鮮明に脳内再生し、爆笑します。




「ニホンのキムチ、カライだけっ!」
by Geonyong Lee



 先生、あれから10数年を経て、日本のキムチは辛いだけじゃなく、グッと美味くもなりました。しかも2011年の“3・11”以降、関東では常備食であると立証された“納豆”に匹敵する勢いで、キムチは広く家庭の食卓に浸透していることを確認しております。だからまた、いつでもいらしてください、改めてキムチ鍋をご用意してお待ち申し上げております…なんてね。



 

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