足りないんですけど…

 2001年の「古今聖歌集試用版」に載る以前から、この聖歌はよく耳にした…というより、譜面を見る機会が多かった1曲です。歌い出しの「あーーーーーーなたはきしべーーで〜」という日本語訳が奇妙にキャッチーで。ドアタマに“あー”を丸々1小節間伸ばす歌のフォームは珍しい。それだけでも人の注意をひきます。


 ただ。それだけじゃない。この聖歌、ヒット曲となるべきエッセンスに溢れている内容を持っています。メロはポップ&キャッチー、サビは感動的に盛り上がる、フォーク・バラード的です。ですが私にはどうにも理解できない。



どうしてAメロが4小節分足りないまま、あっさりと大サビに行ってしまうんだ?


 そう、この聖歌は6/8拍子なので(1小節を2拍で取るため。ポップス感覚では3連符×2拍=1小節の感じに近い)、1つのまとまったフレーズが通常の(4/4拍子の)倍に当たる8小節単位になります。シンプルな楽曲構成であれば [1コーラス=8の倍数] であるのが気持ち良いのに、この聖歌は1コーラスで28小節。8の倍数なら、8×4=32小節となると良いのに、4小節分足りないように思えてならないのです。フレーズの小節による構成としては、8+4+8+8=28小節、となっています。下の譜面を見て下さい。問題の短い4小節間を赤く記します。

 

 

 これでは我ら日本人の琴線に触れる、いわゆる“ワビサビ”が利かない! どないなってんねん!! 特に2フレーズ目の4小節間…なんだこのアッサリと放り出して解決してしまうフィーリング!! こうなったら原語で歌われている、原曲に近いものを聞いてみようとYou Tubeを探ってみました。

 

 ペスカドール・デ・オンブレス
   … スペイン発の大ヒット聖歌

 作詞・作曲のセサレオ・ガバラインという方はスペイン出身の司祭さんだそうで、原曲はスペイン語です。で、YouTubeで原語の歌いだしの「Tu, has venido a la orilla」と入れて検索してみると…釣れるわ釣れるわ、まさに入れ食い状態! しかも「Pescador de Hombres」ってタイトルまで付いてるじゃないか。訳すと“人をとる漁師”か…なるほど、「小舟を降りてあなたと共に歩き出す」のはそういうワケか。原語ではサビの歌いだし「イェスーは〜」は「セニョール!」。ふむふむ、いい感じ。スペイン語圏の誰も彼もが歌ってる感じ。素晴らしい歌唱と演奏が聞けるスタジオ録音もあれば、集会で歌ったのを録音したもの、ギター一本抱えての自分撮りの映像もある。しかもローマ法王=ヨハネ・パウロII世が歌っている…という録音まである。YouTubeでのヒット件数は“大ヒット”に間違いなく、深く深く愛されている聖歌であることを如実に示しています。


 しかしながらレコードらしき録音版をいくつか聞いて見ると、問題の2フレーズ目の4小節を大きくハーモニーを変え、Aメロ全体を大きな1フレーズと解釈した(らしき)ものも見受けられました。つまり私だけでなかったのだ、そこが気になってたのは…って事さ。

 

 実験: 32小節の曲にしてみよう

 原語での色々な録音を聞いても、やっぱり“足りない感”はどうしても消えない。なんなら試しに、足りない分を補ってみましょう! 8+8+8+8=32 という、ごく普通の歌モノの形にするため、短い2フレーズ目を8小節に増やすのだ。コードは一般的な感じで、それにあわせてメロディーを改作してしまいます。


 曲自体が6/8拍子だから、1960年代の王道ポップスバラードのリズムがバッチリハマります。ビーチ・ボーイズの「サーファー・ガール」とか、加山雄三の「君といつまでも」のアレですね。その手でアレンジすると、きっとワビサビ利いた曲になるんじゃないだろうか…と期待してやってみる。


「あなたは岸辺で」補筆バージョン by Peter Michi Miyazaki




 こうすると、問題の短い部分それなりに“足りている”ので俄然、落ち着いた感じになりましたでしょ? ワビサビもちゃんと利いてマス。ところがどうでしょ、なんだかあまりにフツー過ぎません? なんかつまんなくない? なんでだろう? 私の「付け足し部分」が良くないのか? んなこたぁー…あるかもしれんが。けど、この感じだと、どう頑張って歌っても2ハーフがいいところ。聖歌のような4番まで歌うのは忍耐が必要かと。


 この聖歌は、何故“足りてない”のでOKなのか? きっとここが最大のポイントなのでしょう。そういうことにして話を進めてみしょう。

 

 考察: 満ち足りるということ
      〜「完全なもの」が認識できない人間

 私の勝手な理論ですが(音楽家の立場から自分勝手に言いますと)、音楽とは人間にとって聴覚的な「刺激」のひとつであります。その刺激は、物理的には「波動」又は「振動」であります。振動の幅が少ない(あまり変化しない)なら刺激も少ないですが、一定のリズムを導き出す美しい旋律を持つ曲には必ず大きな振動(振幅)が存在し、それが刺激となります。音楽を聴いて「感動する」というのは、個人がその刺激を“ジャストミート”しているのであり、脳が活き活きとしている状態です。これは生きる上で大切なことだと思います。


 しかし「感動」から「満足」にまで至るには個人差/年齢差がありそうですが、概ねその刺激を断続的に享受し続けなければなりません。反面、人間にとって「満足」は、あっという間に「飽きる」につながる危険性を孕んでいます。実のところ、人間は満ち足りることに慣れていません。まるで逆説のようですが、若者は自身が激しく新陳代謝し刻々と変化してく劇的な刺激の中にあるため、段階的により大きな刺激を受けては次々に慣れていく(=飽きていく)ことで、一時的に求める刺激度が増大していく傾向にあります。その中で趣味の限界点を知る(例えば生理的に受け付けないもの)を知ることで、無防備なる若者は徐々に自らのライフスタイルを固めていくのでしょう。


 一方で年齢を経た人間は刺激を求めないワケではありません。ただ経験値から自分にとって過剰な刺激を避け、僅かな刺激でも一定の満足感が得られるように鍛え抜かれているように思います。しかしそういう御年配ですら、満足感を得続けるために適当な刺激を受け続けなければならないのは変わらないのであります。


 では、それを一瞬にして打ち砕き、人間を永久にイッちゃってる状態に保つ事が出来る「完全なもの」が登場すれば良いのではないか?という理屈も出てきます。確かに芸術とは、究極的には「完全なもの」を目指し日夜、踏み台昇降運動を続けてるようなものです。が、いまだに「甚だ美しく、極めてよく出来ている」というレベルにあり、ある1つの分野に於いても「完全なもの」は未だに登場したという報告はありません。


 そういった論調から言いますと、本当の意味で人間が満ち足りることを知るのは「完全なもの」が来た後、いわゆるパラダイスまでおあずけ…ということになるワケで、私は、究極的に人間は平和・平安な世界、そのリアルな到達点たる「神の国(パラダイス)」を全くイメージ出来ないのだと思うのです(そういう風に作られたのだと思う)。創世記を読む限り(それをどう信じるか信じないかに関係なく)、主がイシュ(男)を作られた時から人間は満ち足りている現実を享受できていません。イシュが一人じゃ寂しいとグズり、主がイシャー(女)を与えても尚、刺激を求めてアップルかじって楽園(エデンの園)追放という結末。人間は生まれながらにして平和を感知する機能が足りないのでは? 故に人は「平和とは一時的に均衡が保たれている状態」と考えがちで、それが驚くべき「想定外」の世界であることがワカリマセン。私もワカリマセンが、今は退屈で死にそうなほどの事がそうでなくなる…んじゃないかと私は考えています。


 ただ興味深いポイントとして、人間には“足りない”ことが奇妙な刺激と感じる事が多いんです。見えていないのに見える、聞こえていないのに聞こえる(井上陽水が出演した車のCM「みなさ〜ん、おげんきですか?」…古すぎるか)。人間は平和のイメージのように、目の前にある「足りないもの」がまるで理解できない場合、脳内で補填して(理解できる範囲内に)足りている気にさせるという、いわば“ナットク機能”があるそうです。このとき脳は活き活きと働きます。ナットクしないと落ち着かないからですね。


 そういえば1960年代半ばにアメリカで「昨日」という名の英国の流行歌を巡って一論争あったそうですよ。普通ポップスゆ〜たら4の倍数の小節数やろー、「昨日」は7小節で一巡…1小節足りんわ! ありえへん!!ゆーて。その論争に反して、その曲は一気に大ブレイク。スタンダードを越えて、もはやクラシックの域に。今やその曲が1小節足りないなんて誰も気付かないでしょう、十分に慣れてしまったし…これ、ビートルズの「イエスタデイ」のことね。この弦楽四重奏をバックにギター弾き語りをする地味な曲が驚異的なヒットに至った要因に、完璧な均整を誇るのに1小節足りないことで、一度聞いても満足せず落ち着かない(無意識的にストレスを与えられる)ためリピートせずにはいられなくなる、というのがあるらしいです。つまり脳内のナットク機能が、足りない部分を完全に補填するまで「イエスタデイ」は飽きる事が無く聞けるというワケですね。どうやら人間の一生分の時間では、この曲を補填することは不可能みたいですが。


 だから美しく完璧に見える中、一部分が不格好なのが“チャームポイント”となって人間には大きな刺激となり、同時に繰り返しにも飽きない耐久性を有するが故に、結果的には長年に渡って親しまれることになる…ということになりますな。全ては「不格好な部分」の在り方なのですよ。極論すると、この世に完璧なものが表れたとすれば、それは人間には「意識的に見えないもの」なんですよ、だってチャームポイントが一つもないんだから理解できない! とくれば、「完全なるもの」である全能の神が再臨しても、人間はわからない。既に来ていても誰の目にも入らないのである!

 

 恍惚の聖歌

 Aメロからサビに至る部分…そこだけ想定の「半分」しかない足りなさ加減…しかしその他の全ては実に美しく、完璧な均整が取れているというギャップ…。そこに生まれる刺激は、何度も何度も繰り返し歌って下さい…と、なんか知らんが我らを誘うのです。実際、歌ってみると最後の4番まで楽勝で歌え、気持ちはどんどん盛り上がります。この聖歌は(なんか知らんが)歌う者をエクスタシーに導くのです。私は、このような聖歌にはあまりお目にかかった事はありません。


 先程、ビートルズの「イエスタデイ」の話をしましたが、これまた興味深いことに「あなたは岸辺で」との共通点があるんですよ。両者ともAメロから次の展開(サビ)に至る部分が“足りない”。なぜなんだろう?ワカリマセン。

 

Elpisではこんな演奏をしています

<< 前へ(prev) ページの先頭(Top) 次へ(next) >>