3・11/私的メモ

 2011年3月11日、14時46分。私は東京・月島にある保育園の卒園式での中野慶子(NHK初代うたのおねえさんであり私の母)のミニ・コンサートを終え、同行させた妻と娘(妻は仕事を、娘は保育園を休ませて連れて行った)と4人で車での葉山への帰路の最中、首都高速道路・芝浦付近を走行中でした。

 突然、車の後輪がパンクしたような走行不安定な状態に陥り、やっべー!こんな時にまいったなぁ〜…と懸命に緊急停止できる路肩を探している最中、後部座席の5歳の娘が「ねぇ、アレ見て!すごい、大縄跳び!」と、高架高速道路の真横に走る電線の異常な回転を指しました。

 私は前方を走っていた「毒」マーク付きのタンクローリーがハザードランプを点灯させて減速しはじめたのを確認、その直後に私と娘は「地震だ!」と口を揃えて叫び、私もハザードランプを点灯、奇妙に揺れる高架上の街路灯が万が一折れて倒れてきても車への直撃を免れるであろう位置に車を停止させた直後、更なる大きな揺れに見舞われました。高架高速は路面が激しく波打ち、街路灯はプレスト・ヴィヴァーチェで振れるメトロノームの針のように大きく撓り、目前の高層ビルは目の錯覚を応用した手品「やわらかい鉛筆」のようにクネクネしていました。これらは全て、車のフロントガラスという“フレーム”を通して見た風景でした。


  長く激しい揺れが収まると車窓から見えた街並みは別段、何も変わっていません。スゴイ地震だったという体験以外、何が起きているのかサッパリ判らず、ラジオをつけて再び車を走らせる中で、ようやく震源が宮城県沖であることを知りました。ですが岩手〜宮城県沖の地震にしては東京は揺れ過ぎだと思い、運転中にも関わらずラジオをFM/AM共に各局ザッピングし、全てが番組を中断して地震の情報を伝えている状況から、ここ数年、何度も巨大地震で大きなダメージを受けてきた東北・三陸が心配になりました。同時に日本の太平洋岸全ての地域に大津波警報が出されている事を知りました。となるとウチも関係が大アリです。


 警察やNEXCOのパトカーに「早く一般道へ降りろ!」とドヤされながらも高速道を乗り継いで、地震から約1時間で地元・葉山に戻ることができました。これほどの大地震では家の中はモノが落ちて惨憺たる有様であろうと心配になったのでまずは早く帰りたかっただけでなく、海に近い場所にあるため大津波による警戒で帰宅できなくなる可能性があったのです。故に津波の第一波到達時刻よりも速く帰宅しなければならないと焦っていました。


 高速を降りると葉山全域は停電、一般道路は信号機が消えて大混乱・大渋滞でしたから、パトカーの警告をシカトして高速を通ってきて正解だと思ったものです。そしてまずは小高い丘の上にある自分の家に入る…家の中は何も変わっていません。カラーボックスを縦に2段積みして2mの高さのある危なっかしい本棚が落ちたり、本が散乱している様子もない(カラーボックス同士の接合面は極めて滑りにくいゴムを敷いて積み上げているだけ)。メモ用紙一つ落ちていない。しかも通電していて冷蔵庫が動いている。まるで何もなかったかのようでした。お隣さんの話では、かつてない程に揺れたので建物の外に緊急避難したらご近所さんも一斉に外に避難してきた、外に出てもまだ長い間揺れが残っていたと、その時の状況を教えて下さいました。お隣さんの娘さんは携帯電話で情報をキャッチしており、千葉県浦安付近に続いて東京湾側の地域も液状化していると教えてくれたのですが、先ほどまで私達が居た月島は大丈夫だろうか、保育園の子供達や先生方は、既に帰宅している卒園児達は無事だろうか?と思いましたが、私らの携帯電話(docomoではない)は何故か不通状態。手も足も出ない。

 次に、山の中腹にある実家へと急ぎました…やはり何事もありません。但しこちらは停電、水道もストップ。テレビは使えず携帯電話も通じず、ポータブルラジオで懸命に事態の把握に務めましたが、次々に入ってくる情報は私の想像力・理解力をオーバーしていました。親類全員に安否確認したくても通信手段は全てダウン。ところが突然、私の携帯電話が鳴りました。奈良の“PANKUZU”喜多京司さん(「きよきあさに」の作詞、「空の鳥よ」の作者)が心配してかけてきたもので、彼はTVで情報を仕入れており、東北地方・太平洋側一帯が大津波で壊滅的状況にあり、阪神淡路大震災を超えてしまった、と…。


これが「東日本大震災」でした。


 大津波到達予想時刻になると、実家の付近には大勢の町民が避難してきていました。近所の保育園や幼稚園の子供達も数人のお母さん達に引率されて集まっており、お母さん達は数台の携帯電話(どうやらdocomoしか繋がらなかった)で必死に連絡していました。その電話の相手は子供を迎えに来られないでいる両親であり、電車がストップしているため帰宅すら出来ないという事態になっていることを初めて知りました。「帰宅困難者」です。

 日没となり、気温がグッと下がり始めます。防災放送は「福島の原子力発電所が大地震により緊急停止したための送電停止であり、東京電力によると復旧の目処は立っていない」と繰り返し喋っていました。そして辺りが暗くなると、我が町はそれまで見たことのない漆黒の闇に包まれました。広域が停電しており、実家から江ノ島方向を望む地域は一切の明かりが消えていたのです。空を見上げると満天の星が見えました。

 エンジンをかけた車の赤く点灯するテールランプの光が、あちらこちらで見えはじめます。しかも時間と共に、徐々に増えていきます。皆、エンジンをかけた車の中で暖を取っていたのです。これはエアコンやファンヒーター等、電力が必要不可欠な暖房器具だけの家庭がこの地域には多かったことを物語っていました。


 幸い実家には電源不要の灯油ヒーターが1台あり、家に居ながら暖を取れました。これは私が現在の住まいに引越しをする際に不用になったので廃品買取業者に持ち込んだところ、危険物で引き取れないから自分で処分しろと突っ返されたものを、実家の母が引き取ってくれたものです。又、水は岩手県のミネラルウォーターを取り寄せてストックしていたため不自由せず、ガスはプロパンのため調理も可能で、土鍋でご飯を炊き、止まっている冷蔵庫から「早く料理してしまったほうが良さそうなもの」を選び、母が手早く夕食を作ってくれました。

 実家では祖母の時代から28年来「有事に親族一同が集結しても1週間は食いつなげる備えを」の考えの下、必要なものは常にストックしており、蝋燭や懐中電灯など“明り”にも困らないようになっていました。ありがたや。時々、外で困っている人はいないかと懐中電灯を持って巡回しましたが、車内で暖を取っている近所の方々以外は誰も居なかったので安心したものです。


 午後11時を過ぎた辺りで、私は自分の家に戻ることにしました。離れた駐車場に車を取りに行く途中、いまだエンジンかけた車に居る近所の方々に声をかけたところ、カーナビのワンセグ・テレビで詳細な情報を得ていた方から「電気は明朝には復旧するらしいから、もうすぐ家に戻って布団かぶって寝る」とのお話。それで恐る恐る妻娘を連れて自分の家に戻ったところ、その地域だけ何故か(まだ)通電してる! お隣さんの話では停電はなかったとのこと。そして家に戻って初めてテレビを見て、そのあまりの衝撃映像にドギモを抜かれました。

 同時に東京都心では真夜中の街中は十万人単位の帰宅困難者で溢れ、交通は大混乱。この頃ようやく携帯電話がメールできるようになり、車移動していた私の兄弟が通常30分で行ける距離を8時間かかって帰宅したと知りました。娘の保育園のお友達の父母にも安否メールを出したところ、職場から2時間かけて早歩きで子供を迎えに園に行き、その後1時間かけて帰宅した等の返信がありました。

 その時、私は自分の身に起きた事と周囲の事態とのギャップに困惑しました。私も妻も帰宅困難者にならず、娘を迎えるために保育園へ何時間も歩いて行くことも無かった。しかも東京から車でスイスイと帰ってきた上、出かけた時と同じ状態の家に戻った。全く実感が沸かなかったのです。

 

 Nothing I Can't Do About It

  TV報道で仙台市・荒浜地区の被災状況が流され、荒浜小学校の名が出ました。校舎には児童、屋上に多くの人が避難し、孤立ているとのこと。2003年秋、文化庁の「本物の芸術体験事業」の一環で、私は人形劇団プークと共に同校を訪れたことがあります。その年の11月に同校でプークの公演が行われ、その1つ『人形音楽バラエティー・くるみ割り人形』(音楽はチャイコフスキー)のフィナーレを飾る「花の円舞曲」の演奏に子供達がリコーダーで参加することになっていました。私はその劇でアレンジと演奏をし、さらに「音楽指導の先生」として出向き、子供らと楽しく過ごしたものです。

 思い出深い場所が被災した…当時の子供達はもう18〜20歳になろうか。みんな無事か?生きているか?…不安で落ち着かなくなりました。いや、2003年の旅は3週間に及び、北海道〜岩手〜宮城〜秋田の何箇所も回った。一際シッカリとして年下の子達の面倒を見ていたサイちゃんはどうしてるだろうか?必ずまた会おうと固い約束を交わした双子の佐藤兄弟はどこにいる?東京に行ったらマルキュー(渋谷109)に行くんだと豪語していた丸々とした娘は無事か?いや、その子たちは成長して全国の大学等に散らばって、東北には居なかったかもしれない…色々なことがよぎりました。


仙台市立・荒浜小学校にて2003年9月29日 (宮崎 道と荒浜小学校生徒)

 

 後日、東京在住の知り合いに連絡を取ると、皆一様にタンスが倒れて襲ってきたとか、本棚が落ちたとか、液晶テレビが倒れたとか、仕事道具が落下して壊れたとか散々な話を聞きましたが、私の身の回りにはそれが一切ない。皆と奇妙にズレている。共感の“リアリティー”がないのです。私達は単にラッキーだったのかもしれない。だがそのラッキーとはどういうことなんだ? 自問自答の日々を送ることになり、何か闇が迫ってくるような圧迫感が高まっていきました。通常通りの生活を送りながら、どうしたことか、虚脱感に襲われてしまいました。


 ネットニュースには、翌日に被災地に入った支援団体のなかにヒューマンシールド神戸の名前がありました。一方、社会鍋以外ではニュースに上がることのない救世軍は3/11の帰宅困難者受け入れを率先して行い、救世軍人の一人が車に水や食料、医薬品などを詰め込んで被災地の病院への強行軍を行ったことも知りました。その素早い動き、尊い働きには神のご加護があるようにと祈るばかりでした。



では、自分は自分の出来ることをやろう。



 こう思っていたうちはまだ良かったのです。気がつけば東北へボランティアに向かおうとも、私には先立つもの(資金)がない。抱えている仕事もしなければならないが、とにもかくにもお金がない。その時、被災地で必要だったのはまだ泥まみれの市・町・村へのマンパワーであり、十分な医療であり食料であり、暖をとるための燃料であり、車のガソリン。

 自衛隊総動員で被災地に向かっている最中、ある復興支援ボランティア団体から音楽をやりに同行してくれというお誘いも受けましたが、丁重に断りました。私にはお金が無い上に東北の冬の寒さに対応できる防寒着もない。何の用意もない。全てを誰かに頼ってボランティアに向かうような無鉄砲で無責任なことはあり得ない、しかし気持ちは今すぐ飛んで行きたい。それが次第に「私には結局、何も出来ないんじゃないか」へと変化し、祈る言葉も失いました。どういうわけか祈りの言葉を口にすると、自分の中で空回りして脱力感に襲われるのです。これは一体どうしたことだ?!


 そうこうしているうちに福島第一原子力発電所で爆発が続き、原子炉内部で放射性物質が充満した水蒸気を放出して原子炉の圧力を下げるベント、原子炉から漏れた大量の放射能汚染水(低レベルとのこと)を海に流すなどで、放射能汚染がニュースの中心に居座るようになりました。チェルノブイリに続くフクシマと言われ、TVには連日多くの大学教授、専門家、解説委員が登場しては原発で何が起きているかを話し始めました。しかし、ある日を境に全てのTV局から姿を消したコメンテーターもいました。国策的に問題視されるシビアな内容を口にしたためでしょう。この件で私はすっかり戦後の日本国政治の宿命を痛感、そしてブロードキャスト・メディアへの不信感はより強固なものになり、地デジ化を目前にTVを見ることを辞めてしまいました。

 東北の状況はネットで仕入れていましたが、どこを見ても出てくる「日本赤十字社への義援金受付」のバナー…一方で義援金分配についての政治介入のスッタモンダ…。結果、「私は世の動向に流されない位置に立つ」と考えるに至ったものの、自分の中でズレたままのものが何であるかがいまだ判らず、音楽を演奏する気もすっかり失せてしまいました。


 そんな折、Elpisのオーボエ奏者=堀江和夫から連絡がありました。「Elpisでチャリティーライヴをやろう」。私は丁重に断りました。集めた義援金は誰に託せばいいんだ?顔の見えない人間相手には託せないぞ!そういう気でしたが、一方で「とりあえずやればいいのに何故やらない?」と自問自答して心が揺れるような私は暗闇を進んでいる気分でした。

 

 助さんのおかげ

 1ヵ月後、堀江和夫兄から再び連絡が入りました。自分の教会で6月12日に義援金チャリティーコンサートをやるんだが出演はElpisでいきたいんだがどうか?とのこと。私をやる気にさせてくれたのは、コンサートの中心に堀江兄の友人でもあったNGOヒューマンシールド神戸代表=吉村誠司氏(愛称:助さん)を呼んで活動報告をしてもらうという好企画でした。当日に集めた義援金(募金)は全額その場でヒューマンシールド神戸に手渡す、これが一番良い。これなら行きたくても行けないでいる被災地とより近くに繋がれる気がする。こうしてElpis召集を決定、コンサート準備に取り掛かりました。


 そこで演奏曲目を選ぶ際、まず演ろうと考えたのが「暗闇行くときには」でした。2006年11月11日、大阪・川口基督教会で行われた聖歌集完成記念礼拝でフィナーレに歌われた聖歌で、その時の感動的な模様はアルバム『今日もまた新しく〜礼拝で歌われた日本聖公会 聖歌集』で聴くことができます。実はこの時の感動体験のため、別に自分達でやらなくても…と敢えて目を背けていたのですが、震災チャリティーにはドンピシャの曲。やるっきゃない。


 この聖歌のアレンジメントは横浜教区・聖アンデレ教会の坂本日菜さんが手掛けており、感動的な仕上がりです。そしてElpisのヴォーカリスト=黒沢紀子(vo)は同教会信徒であり日菜さんと顔見知り。ここは坂本日菜さんに敬意を表して可能な限り和声を変えず、外枠の装飾を整えていく形でアレンジすることにしました。



 階段昇降音型が基本形、中身は意外とポップ!

 さて、この聖歌には深刻さや暗さはありません。芸術的な重みよりも、身のこなしの軽妙さのようなもの(これを私は“ポップ”と呼ぶ)が際立っており、「主われを愛す」や「いつくしみ深き」と同等の、多くの人の愛唱聖歌となる要素を十分に備えています。で、アナリーゼしてみると旋律線は真ん中で反転した形になるのに気付きます。前半は階段を降りるような印象的な音型が節の始めに必ず表れており、後半は大盛り上がりの中、最期の最期にその音型の逆パターン、即ち階段を昇るような音型となって再登場します。この点から見ても、この曲は僅かながらも論理的整合性を有しており、フィーリングまかせの鼻歌一発でお手軽に作ったものではなさそうです。


 ですがこの階段昇降音型の旋律は歌モノというより器楽曲に近く、多少、歌旋律としてはムチャブリであります。あ、ピアノを弾きながら作ったのかな?といった印象です(旋律の運び方に多少悩んだ節を感じるのは気のせいか?)。それを和声で包み込んで美しい流れを作り、一気に高みに引き上げたのは日菜さんの優れたハーモニー・センスに他なりません。ポップさを多分に残し、希望に満る堅固な礼拝音楽として成立させた手腕は見事で、新時代の聖歌のニュアンスを十分感じさせてくれる逸品だと思います。

 

 Elpisではこうやった

 かつてガッチガチの鉄壁と思われていた「古今聖歌集」収録の聖歌を、旋律をそのまま残して粉砕して再構築、礼拝用聖歌をポップで楽しいコンサート・ピースに昇華するのがElpisの方法論でした。例えて言うなら小池屋ポテトチップスとナビスコ・チップスター(又はプリングルズ)の違いのようなものです。ジャガイモを原料とし、形状も似ていながら、ジャガイモ自体を薄くスライスして油で揚げるポテチと、粉にして色々混ぜて練って伸ばしてフレークにするチップスターでは製法も味わいも異なります。どっちも美味いんですが。言うなればElpis=チップスターで、油っぽさがなくてライトでポップなポテチじゃないポテチ、元はジャガイモだけどジャガイモじゃない、みたいな。…わかんねーか。


 ところが2006年の「日本聖公会聖歌集」で新たに掲載された聖歌の多くが最初からポップさを有しており、Elpisがやってきた方法論を適用しても結果は何ら変わらないモノになるか、それとも単にフザケただけのアレンジになるか…。ここが私としては最も悩ませられた部分で、それ故に2002年以降4年間に渡ってElpisの活動を休止しました。新しい聖歌集が浸透するまで待った…というのも真相ですが、本音としては新しい方法論が見つからなかったのですよ。


 この度、ポップさを有した感動的な「暗闇行くときには」をElpisで演る際、重厚さをパワー・アップしてカッコ良く聞かせてしまおう、と考えました。前向きなマーチと王道ロック・バラードの混合…このスタイルは「主を求めよ」と同じです。しかし旋律自体がポップなフィーリングに溢れているせいで、「暗闇行くときには」の方がより一層ビシっと綺麗にハマります。その結果を載せておきますね。

第476番「暗闇ゆくときには」 (演奏:Elpis)
[Live at 林間バルナバ教会 2011年6月12日]



 コンサート当日、助さんを慕うボランティア仲間の方々が被災地から駆けつけ、話を聴く機会も得ることができました。

 

「被災地はもう戦場! 阪神の時とは規模は勿論違うけど、置かれてる状況が違い過ぎる。国に訴えようにも、自治体がない地域は完全に放りっぱなしだよ。阪神では野次馬がいっぱい居てさ、車で入ってきて写真撮って帰ってくの。でさ、東北にもやっぱり来てるんだよ、野次馬が。昔はフザケんなって腹立ったよ。でも今回は全然OK、まるで逆の印象なの。そんなんでもいいから現場を実際に、一目見てくれるだけでもいいって。目に焼き付けて家に帰って、誰かに話してくれって。あの風景を見て何も思わないなんて絶対ナイナイ。だって酷過ぎるモン。俺は写真撮るの好きでさ、被災地の今みたいな写真と一緒にブログに載せたりしてきたんだけど、今度はとても撮れない。心情的にムリ! だから時間が経って忘れられたり、見慣れたみたいに錯覚されるのが心配かな。」(ボランティアで東北に行っている あのもとゆき 氏の言葉)

 

 …印象深かった。「戦場」という表現が私の中につっかえていた何かを吹き飛ばして、祈ることが空虚でなくなったのです。私の中で湾曲したおかしな使命感や危機感が渦巻いて「戦場」に行かずにいる事に焦って祈ることもできず、こともあろうに主イエスを見失っていたのです。


 助さんにも、仙台、気仙沼、石巻、陸前高田などの大きな町の状況はテレビ等で知ることが出来るが、同じく津波で被災した小さな町や、地震で被害を受けた岩手県の奥地の村にメディアは入ってるか?と聞いたところ、全く来てない、来たという話も人から聞いていないとのこと。やはりテレビの報道は信用ならん(ある事実の一側面を切り取ったに過ぎないという意)


 「祈りたくても祈る言葉すら失っている、そういうときには主イエス・キリストに、私の代わりに父なる神に祈ってもらうのです」…マザー・テレサの言葉を、この時、ふと思い出したものです。私はそうして“祈ること”が出来るようになっただけでも暗闇から解放され、ようやくズレを解消してリアリティーを感じることが出来るようになりました。私は目を閉じたことに気づかず、主イエスを見失ったと思ってしまったが、ようやく目を開くことが出来たという実感だろうか…わからんが。生きている人はちゃんと生きていくこと、これが何より大事。今生きている私は、今生きている人のために神に祈る。死者への鎮魂のレクィエムを今書いている必要はない。無我夢中で日々を送っている人々が、フと心の闇に落ちないように祈る。取り巻く影を拭いて、常に光を仰ぎ見ようではないかと祈る。

 

 追記

 上記の文面を書いてから約3ヶ月後、台風が2コずつやってくる不思議な気象に見舞われた2011年秋の日本は、驚愕の豪雨にさらされた。2011年は「水難」の年だろうか。しかも手に負えない「見えるもの」と「見えないもの」が次々に迫ってきた。見えないものは「見方を変える」ことで、そこにレッキとして存在することが「見えてくる」ことがある。


 台風15号の強風で、葉山有数のハイキングコース途中にある実家の眼下にあった立派な大銀杏が折れ、高圧線や電話線をハンモック代わりにし、向かい側にある木々に上から覆いかぶさった状態で、道路の上で中ぶらりんになった。辛うじてひっかかっているだけで重さ数百kgの巨木が頭上に存在する、という極めて不安定で危険な状態なのだが、なんと道路から見上げると普段通りの風景にしか見えない。そう、これは「見えるもの」にも関わらず、偶然にもカモフラージュされて「見えないもの」になっていたのだ。困ったことにウチからしか危機的状況を把握することができない…ときたモンだ。近所でもウチ以外は誰も気付かなかった。そのため自治体も地主も電力会社も軽く見てしまった。いくらあちこちに報告を入れたとはいえ、その現状を訴えた声が一件(一軒)、しかも行政に対し“相手が迷惑だと感じるほどウルサく”は訴えなかったからである。ここに私はこの世の常を見る。


 台風一過から2週間、更に秋が深まり、落葉の降りつもる時期になって、空中に浮かぶ巨大な倒木は徐々にその姿を表してきた。既に大勢のハイカー達がそれを目の当たりにして立ち止まっている。全員がウチの前で溜まってガヤガヤと話しているので、会話の内容も丸聞こえで少々うるさい。彼らは頭上を見て、その下を通ることを躊躇していたのだ。少なくとも、それが危険だと認識するのに時間など要さない、ということだけが全員共通の意見である。


 そんな中、ようやく電力会社の下請け業者が倒木の伐採作業に乗り出すことになった。視察に来た担当者は、大変困難な作業になるだろうとため息をついた。ここはプロに任せるほかない。


 そして私は、厄介な季節の変わり目で体調が常に優れない。自分の中にも判別不可能な「見えないもの」はある。だからリラックスして感覚を研ぎ澄まし、異変をキャッチできるようにしている。


[※ 倒木の撤去作業はその後、無事終了しました。急勾配のためクレーン等の重機を停車できず、道路を通行止めにして足場でやぐらを組み上げ、約8時間に及ぶ大工事となりました。]

<< 前へ(prev) ページの先頭(Top) 次へ(next) >>