どんな曲かな?




 私が責任者です

 2001年に出版された「古今聖歌集改訂試用版」に初めて収録され、新聖歌集に引き続き掲載されることになった聖歌です。


 実はこの曲は私と非常に深い繋がりがあります。私がプロデュースして1999年に発売したエキュメニカル讃美CD『UNITY!〜サイバースペースのクリスチャンたち』(写真右)とその楽譜集『UNITY! SCORES』に収録したことによって知られることになったからであります。私の責任で世に紹介したと言っていいと思うんですがね、言い過ぎか? いやいや、こんなところで謙遜したりはしませんぜ、私がこの賛美を紹介した責任者です。

 

 カリスマ派なるもの

 大阪・高槻市に、子羊の群れ教会という単立の教会があります。“カリスマ派”と言われ、一部のキリスト教会からはカルトだと名指しで非難されることもある教会であることも承知しています。この教会員であり、教会内の数ある賛美グループ(奏楽団)の一員であった、なべQ氏(※ハンドルネームで記させて頂きます)と出会ったのは、まだパソコン通信時代のNIFTY SERVE(現・@nifty)内に作られていたキリスト教フォーラム“ハレルヤ・ハレルヤ”(通称FLORD)でのことです。ちなみにフォーラムとは、まぁいわば登録制の会員クラブみたいなもので、FLORDはキリスト教系クラブの1つでした。ピンとこない場合、現在のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)とそっくりなものが昔からあったんだ〜、とイメージして下さい、mixiみたいな…。


 なべQ氏と賛美について話すうち、子羊の群れ教会では賛美グループが幾つもあり、毎主日には新しいオリジナル賛美が一曲は必ず披露されるほど音楽的に活きがいいこと知りました。ところが多くの新作賛美が1回の使用のみで、繰り返し歌われるものは数少ない事、更に教会は対外的な活動をしないせいか賛美が正に“神にのみ向かう賛美の歌”以外の何ものでもなく、なべQ氏は教会外に出ることなく埋没していく賛美について一抹の淋しさを訴えてらっしゃいました。


 CD『UNITY!』の企画を“ハレルヤ・ハレルヤ”の中でブチ上げた時、なべQ氏は大ノリで製作に参加させて欲しいと、教会オリジナル賛美の礼拝録音を大量に聴かせて下さいました。同氏率いる通称“なべQグループ”の演奏・歌は上出来で、確かに賛美そのものは充実したものでした。が、その中で一際衝撃的な賛美に遭遇しました。それは「タリタ・クミ〈少女よ起きなさい〉」と題されていました。

 

 聖書スピンオフ

 マルコによる福音書・5章41節(※新共同訳聖書参照。同記述はマタイ9章23-26節、ルカ8章54節)を元にした賛美で、会堂長ヤイロの幼い娘をイエスが生き返らせる箇所を劇的なタッチで書き上げたものです。内容は…

第1節: 死んでるヤイロの娘が聴いた主イエスの語りかけの言葉
第2節: 主イエスの声に「目覚め」る様
第3節: 甦る娘の動き、そして賛美



 これら全て、娘の主観から綴られています。イエスが皆の前で語った「みんな何やってんの?眠っている娘を前に、何を泣いてるんだ?」といった言葉の通り、娘は深い眠りから“主イエスのウェイクアップ・コールで目覚める”という設定になっております。ですから1番の「おまえは私の愛する娘、私の手を取り命を受けよ。恐れることはない、ただ信じなさい。お前を生かすのはこの私だけ。タリタクミ、少女よ起きて歩め。タリタ・クミ、少女よ自分の足で立て」という歌詞は(ここにカリスマ入ってると早合点しがちですが)、少なくとも主イエスが自ら歌っているんじゃありませんよ。飽くまで娘が聴いた主イエスの言葉という書法です。2番〜3番は「私の名を呼ぶ主イエスの御声に、光と命が私に満ちる…」ときて娘の身体が動き出す、このダイナミックな展開は凄い。もはやドラマが“聖書スピンオフ”といった領域にも踏み込んでおりマス!


 しかも付いている曲がミョーにカッコ良い。繊細で大胆で、どこか演歌に通じる泣きの世界があり、歌詞も相まって私は一発ノックアウト、即行でCDに採用決定!で、関西で福音歌手活動をしている谷渕和子さんに歌って頂き、『UNITY!』に収録しました。

 

 一悶着アリ…

 製作裏話が続くようで申し訳ないのですが、実はこの賛美は一度、CD『UNITY!』製作チーム、通称“MCDプロジェクト”の会議で一度、収録を見送られました。ハレルヤ・ハレルヤで連日に渡るディスカッションを重ねるうち、子羊の群れ教会をカルトと定めている教派・教会に属する方々(製作メンバーも含む)から、「あの教会と間接的にでも関わるCD製作なら今後は参加できない」、「あの教会の賛美が入ったCDになってしまうなら不買運動も辞さない」との頑なな意向を多数頂いたため、これじゃーどーしよーもないなー!と決議されたのです。当時、私はマジで「ザケンナー!」とプリキュアの敵キャラの如く憤慨、ならばその教会の礼拝に出て“カリスマ度検証”してみようじゃねーの!と大阪近郊の製作メンバーに頼んで実際に複数回に渡って行って貰いました。その結果、聖霊派の流れを汲んだ非常にオーソドックスな礼拝であり、巷で言われるところのカルトならではのオカルト・ショー(?!)もなく、教義的にも糾弾される所以はその主日のメッセージ(※説教)にも礼拝に於いても、信徒の姿勢にもまるで感じなかったという報告を受け、教派・教義なんぞイート・シット!とばかりに、勝手に「タリタ・クミ」の録音準備を進めたのです。


 とはいえこの時、エキュメニカルという事が如何に面倒臭く、一筋縄ではいかないものであるかを感じました。この問題はあっと言う間にハレルヤ・ハレルヤ内で爆発炎上し、なべQ氏に向けて心ない中傷の言葉すら連日飛び回る有様。私にも「貴方は一体、何をするつもりなのでしょうか?」、「悪い事は言いませんから、あの教会員とは早急に手を切るべきです」、「CD企画は白紙撤回してからやりなおすべきだと思います」といった誠に丁寧な(?!)ご忠告のメールも多数頂戴しましたが、2週間もするうちになべQ氏自身が「もう堪忍してやー!」とばかりにMCDプロジェクトから完全撤退を表明する事によって一段落という顛末に。この時のフォーラム内の異様な興奮状態はネット・コミュニティーに現在もつきまとう基本的問題が表面化しただけでなく、個々の人間のダークサイドまで露呈してくれまして、エキュメニカルについて学ぶ非常に良い機会になりました。

 

 大人の論理のダークサイド

 問題はエキュメニカル(教会一致)っていうのは実際、驚異的に簡単な事なのに、何故それが全然出来ないでいるかって事なんですよ。


 極論すれば、各教派にある「教義」というものはキリスト者にとって精神的支柱であるとは言うものの、基本思想を取り払ってしまえば単に「作法の違い」に過ぎない、と私は思っています。作法の違いであるなら、装飾を省けば“隅の親石(コーナーストーン)”は皆一緒のハズですから(これが違ったらそりゃー困るわさ。あぁ〜、お宅様は違う教祖様だったんですねってことで…多神教か!)、実際は簡単なことなんですよ。


 何故、お作法の違いが出来ちゃったかの理由については、キリスト教史を紐解けば書いてありますよね。その歴史、実際は人間の歴史です。人間ですから間違いも勘違いもします。だって世の人全員、“人間としてビギナー”ですもの。だからこそ、主イエスは人間に対しての極論メッセージとして「神は唯一だ」と言って下さったと思います。神の顔色伺って誉められるようなことをするあざとい生き方を辞めて、ただ神に従い行くだけでいいんスよ、その心意気が大事っスよ、と最初からクギを刺しています。


 それは「神を都合良く利用するな」という戒めだと思うんですが、人類史上では毎度勝手な都合で破られてきております。果たしてそれは、大人の論理であります。それが高じると、神様は自分の方を向いてくれているから何をやっても正解だ、といった自分勝手な理屈を作ってしまうワケで、これこそがその論理のダークサイドです。そうなると、神は求めれば必ず自分に力をくれる存在だと思い込み、事もあろうに神を盾にして戦おうとします(弟子達はそれをしようとする度に主イエスに叱られてマス)。神は正義にしてその中に自分が入っていると考える、その根拠は一体何処から来るのか?という問いこそ、クリスチャンが直面する永遠の“解決できない定理”であると思うのです。しかしこれを一発で不問にするのが「人間が神を利用する」という180度大逆転の発想なワケで、そこには主イエスの戒めすら忘れられてしまいます。


 教会というものを考えてみると、意外とダークサイドに陥っている自分に気付いて面白いですよ。例えば“マイホーム”(我が家)と言えば、真っ先に何をイメージします? 建造物のことじゃないでしょうか? 本来マイホームとは、家族が集まる場のこと(素の自分でいられる場)であって、家という建物が家族を形成するワケじゃないでしょ。では教会ってのはどうですか? やっぱり物理的な建造物や場所が教会そのものになっていませんか? 大工の家出身の主イエスは、建造物としての教会を建ててませんよね。祈りの家たる教会は、そういう場所を作って神様を奉らねばならない…ってワケじゃないんですね、極論すれば。


 で、教会というものが分裂し、教派が次第にシステム化(組織化)されていくに従って、私達はシステムに従わなければならなくなっていく結果となり、教派によっては牧師の権力偏重型の教会が明らかに存在することになりました。簡単に言えば、牧師の考える教義(即ち牧師個人の意向)に添わない事をすると一発破門、又はペナルティーを背負い込む事をヒドく畏れている…って事例が『UNITY!』製作時には、あちこちにあったんスよ。そういう場ではみんな主イエスのことなんか二の次なんスよ、だって物理的に目に見えてる牧師の方がもっと危険で怖いんだから! 実際、大人の論理が高じていき、それを極度に畏怖する心が寄り集まるとカルト集団の一丁上がり。論理が精神を圧倒するなんて、大人ならではの世界観です。子供はそんなこと考えない。だから主イエスは「天の国はこのような者(子供)たちのものだ」と、2000年も前に集団のカルト化をブッた切ったんじゃないでしょうかね。


 エキュメニカルの難しさって、その大人の論理があちらこちらに横たわっているからだと思うんですよ、私は。結局、自分は何に従っているのか、どこに立っているのか? 究極的には教会がなくなったら自分はどうするか? これらを日々、謙虚に自己検証していかねば、教理に根ざしたワケわかんない大人の論理を単純に受け入れてしまうでしょう。究極的にはキリスト教を含めた全宗教はいずれ消滅するんです、神の国が実現した暁には! そしてそれが最終目的なんです。最終目的に向かう上での心得、日々の行い、祈り方、生活の規範などを記したのが、いわゆる各宗教にある「教典」でありましょう。キリスト教では勿論、聖書です。ですが私は聖書を“神の言葉のリアルな記録書”とし、記載事柄全てを事実として受け入れる教義を持った宗派の捉え方にも異論はありません。それでもいいのです、モーセの十戒と主イエスの新たな定義をブっ飛ばさなけりゃサ!

 

 音で聴く楽曲の歩み

 で、「タリタ・クミ〈少女よ起きなさい〉」が「おまえは私の愛する娘」となって聖公会の礼拝で歌われるようになったというのは、紹介した者として嬉しいものですが、何より興味深いのはCD製作当時に各教派の信徒さんたちから非難の声が上がった子羊の群れ教会生まれの賛美を、日本聖公会が一切の偏見なく自らキチンと手続きを踏んで取り上げたという事実です。エキュメニカルを積極的に進める聖公会ならではの決定だと感じました。但し、改訂となったのはズバリ“タリタ・クミ”という部分で、聖公会ではアラム語の正しい読み方をしようと(新共同訳聖書に準じて)“タリタ・クム”に変更になっています。この改訂は作者にも了解を得ており、UNITY! ProjectとしてもOKを出しました。


 聖歌集に掲載された譜面をご覧になって下さい。どなたが編曲されたかは存じ上げておりませんが、大型のパイプオルガンで奏するにも適した極めて優れたアレンジメントです。ストップの組み合わせによってピアニッシモからフォルテッシモまで、かなり自在に演出できます。なべQグループのオリジナルはピアノのアルペジオによる奏楽で(CD版のアレンジは出来る限りオリジナルに準じている)、オルガンで奏することは全く考慮に入ってなかったと思いますので、その点では素晴らしい編曲をなさった方が聖歌改訂委員会におられるのですね、ブラボー!(ちなみに私は編曲には関わっておりません)


 今回、特別にその“なべQグループ”によるオリジナル・デモテープの一部をお聴かせしましょう(提供:UNITY! Project)

オリジナル・デモ[なべQグループ]



 ハープ的に弾くピアノと歌のみの淡々としたシンプルなもので、不思議なほど歌が耳に残る。流れるような3拍子に載せた優れた旋律、歌詞の強さが判ろうというものです。礼拝でのライヴ録音としては優秀で、デモテープとしても十分なクォリティーがあります。私が一発で惚れ込んだっての、わかってもらえるかなぁ〜。


 次にCD『UNITY!』収録版の谷渕和子さんの歌を聴いて下さい。オリジナルのピアノ伴奏が秀逸だったため基本はそれに準じ、全体的に色彩感をプラスしていく方向性でアレンジをまとめています。皆さんはわざわざこのサイトを訪れて私の駄文を根気よく読んで下さっているのですから、CDバージョンそのままをここに載せるのも芸がないので“21世紀エディション”を作りましたので、全曲をお贈りします。

CD『UNITY!』収録版(21st Century Edition)



 さて、なべQ氏から譜面の提供はありませんでしたので本来は何拍子で書かれているのか定かでないのですが、谷渕さんには『UNITY!』の録音の際、12/8拍子(ジャズ・スウィング的なテンポ感)のフィーリングを持って歌ってもらいました。つまり普通の3拍子ではないところが、この賛美を特徴付けているポイントだと思ってのことです。

 しかしながら12/8拍子で楽譜を起こすと譜面がやたら見ヅラい。2/4拍子で起こすと3連譜の嵐だしテンポ感が判りづらい。そこで楽譜集『UNITY! SCORES』出版の際に思い切って3/4拍子で作成しました。そうなりますとテンポはかなり速く、アレグロとなります。結果、小節数が多くなって長い曲に見えますが、そんなに長くない! この譜面を原典として「古今聖歌集改訂試用版」(及び「聖歌集」)用に新たな編曲がなされました。


 その「古今聖歌集改訂試用版」掲載の譜面を元に、中部教区の青年達が自主的に行った試用版の聖歌全曲デモンストレーション録音では、明確な3拍子を刻むギター伴奏の上で、はつらつとユニゾンで歌われています。この聖歌を教会で声を合わせて(ユニゾンで)歌うと、どんな奏楽でも重厚な世界が出現することを教えてくれました。


 ちなみにこの活動はオルガニストの居ない小さな教会に新しい聖歌を馴染んでもらいたい一心で行われた草の根運動であり、その天晴れな心意気に私は深く感動したものです。

中部教区青年部による演奏



 一方でこの賛美を世に問うたエキュメニカル賛美製作集団=UNITY! Projectでは小ユニットでのライヴ活動を開始し、『UNITY!』収録賛美をアナリーゼし、色々なスタイルで演奏する試みを行いました。その中でもロック・ユニット=“Unit-2”で演奏した「タリタ・クミ」は各地で好評を博しまして、この賛美が如何にロックに通じるものがあるか、又は演歌の“泣き”が目一杯あるかという点を実証したことで、老若男女問わず日本人の心をグっと捉える理由が判った気がしたものです。皆さんはどうでしょうかね? 音声サンプルも載せておきます。Unit-2のメンバーは聖公会のPeter宮崎 道(key)、カトリックのFrancis今 卓也(vln)、キリスト兄弟団のPANKUZU喜多京司(g)、新宿シャローム教会の黒田 淳(vo)で、2002年11月の大阪基督教短期大学でのコンサートの模様です。

ロック・バージョン[Live]演奏:Unit-2



 1999年のCD『UNITY!』発売以来、長らく私はこの賛美をステージで演奏する際、その都度“これは大阪の子羊の群れ教会の賛美です”と敢えてお断りしていました。しかし苦情もなく、ましてや途中退席する方もいませんでしたよ。聖書の記述に則しているだけでなく、ヤイロの娘を自分自身に置き換えることによって、主によって救われた自分を客観的に観る事になるからでしょうね。これを本質的に「賛美」というのだと思います。


 私はね…個人的な見解に過ぎませんけど、究極的に「賛美」というものはキリスト教であれば教派・教義が違っても結果は同じところに行き着くハズだと考えているんです。それに相反するものを挙げるとすれば、教派、教義、教会等への礼讃によって喜びを得ようとする作者自身や信徒の下心(言い換えれば心の向き)だと思うんですよ…一刀両断ですみませんがね。


 余談ですが、『UNITY!』出した頃だったか、人気TVシリーズ『Xファイル』のエピソードの中に「タリサ・クミ」ってのがあって、レンタルビデオ屋でタイトル観ただけで思わずこの聖歌を歌っちゃったものです。あ、関係ない話でしたね。では今回はこれにて!

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