次は長崎です。ナガサキも第二次大戦中にヒロシマに次いで核攻撃によって壊滅した地です。広島・長崎では、教会すら“そんなのカンケーねぇ〜!”とばかりに灰にしました。私が1983年頃に長崎訪れた際、現地の人が「広島は原爆を決して忘れないが、長崎の本音は早く忘れたいのだと思う。ここは沢山の悲劇の歴史があるから、未来に希望を託したいのだ。以前、キリシタンのおばぁちゃんが言ってるのを聞いた。踏み絵と原爆で長崎のキリシタンは2度も苦しんだと。アメリカは自分たちと同じ“基督さん”の国だから絶対に酷いことはしないだろうと信じていたのに、原爆を落とされた。だが神も仏もない現実を決して恨まず、黙って祈り、戦争のない世の中を求めるのだと。」と語っていたのをよく覚えています。確かに歴史を振り返ってみると、豊臣秀吉による日本二十六聖人の殉教という日本に於けるキリスト者弾圧の最初の歴史を刻んだ地でもあります。加藤望氏は二十六聖人殉教と原爆、その2つの歴史に思いを馳せ、詩を紡ぎました。


長崎の空は 足もとからはじまっている
大空が殉教の道行(みちゆき)を見守っている
失われた時を映しながら
天と地の分かれ道に わたしは立っている

長崎の空は 夜の闇におおわれている
大空が原爆の死の灰に染められている
失われた時を嘆きながら
天と地の分かれ道に わたしは立っている

長崎の空は 神の国にいざなっている
大空が地の民の信仰を抱きしめている
失われた時を謳いながら
天と地の分かれ道に わたしは立っている

新しい時を求めながら
天と地を結ぶイェスに ここで出会うため



 語感がキレイにまとめられたリズミカルな詩になっている反面、加藤氏独自の淡々とした姿勢が実に顕著に表れています。「失われた時を○○○○ながら、天と地の分かれ道に私は立っている」という、全節に共通する下りがあり、フォーマットとしては [Aメロ→サビ] というポップス的な作曲法に明らかにフィットします。そういう意味では「平和の鐘が広島から流れる」の重量感と比べると、幾分軽くなっている印象があります。


 詩について私的に興味深いのは、かつてキリシタン大名の元で日本最大のキリスト教領となっていた長崎で、歴史の中でその地に染み込んだキリスト者の血の上に立ち、人類の問題のすべての解決策=イエスと出会うことを訴えていることです。キリスト教の“救済”をポジティヴかつ明確に提示している点で、この詩は既に全キリスト教会にウケる(?!)要素を十分に保有していると感じます。


 作曲のジョン・ミヤザキという方は私ではありません。私はこの聖歌を作る上で、オルガン用の4声体アレンジを頼まれました。パソコン・ソフトからプリントアウトされたオリジナルの楽譜は、一応四声の串団子で書かれていたのですが、コード進行のアウトラインだけ残してオルガン奏楽に相応しいハーモニーに作り直しました。もっとも、楽譜から作曲者の意図するところは全て汲み取ったつもりなんですがね。


 この聖歌は“基本ユニゾン”で歌う事を前提として書かれておりますが、私のフィーリングとしてはサビの「失われた時を〜」からパートが分かれて合唱になると色彩が広がって美しい、と思っています。内声に連続した動きがあって、歌い甲斐があるんじゃないかなぁ。


 実録聖歌CD『今日もまた新しく』で聞けるこの聖歌で、天才万能鍵盤奏者=鈴木隆太氏のポータトーン(ピアノサウンド)により、見事なバラード調で奏楽されているのを是非聴いてみて下さい。的確に曲の性格を掴んで、一発でここまで奏楽するなんてスゴい。しかしこの奏楽がこの聖歌のムードやテンポの基本形だというワケではありません。実は私はこの音が収録された現場に居たので言えることですが、その場の空気がそうさせた、というのが正しい。鈴木氏はこの聖歌のキャラクターを少々強めて奏楽することで他の聖歌との違いを明確に示し(そうする必要があった)、テンポも速めにとり、極力インテンポで、勢い良く歌い上げるように先導しています。それでCDでは歓声にも似た怒濤の演奏が聞けるワケです。しかし皆さんが礼拝で歌う時、もっとゆっくりのテンポで、静かに歌っても良いのです。


 下の譜例を参照ください。例えば旋律をご覧頂き、1節目で言うと、最初のセンテンス「長崎の空は足もとからはじまっている」とその次、又、「大空が殉教の道行を見守っている」とその次のセンテンスの間が狭いためにクッション(一息つく間)を必要としているため、ハーモニーを組み直す際この2カ所には内声に経過音などを入れず、和音の動きを“一時停止”させました。インテンポで演奏せず、間をおくことが出来るようにと考えてのことです。譜面上で色づけしてある部分は、そうしたクッションがあると良い箇所ですので、歌う際にはブレスマーク(Vのところ)の直前で、気持ちブレイクを取った方が礼拝では歌いやすくなるでしょう。

 

 

 添付されていた作曲者自身のコメントを読みましたら、詩を受け取った時に最後のコーダに当たる部分「新しい時を求めながら…」を、初出のBメロとして作るべきか、それとも語感に合わせてサビをリピートするかどうかというところで、どちらが詩の持つ意味を的確に伝えられるのか悩んだ…、といった内容が書かれていました。要するにサビをリピートするのは安易過ぎはしないだろうか?とお考えになったそうですが、結果的にはサビを2回繰り返すシンプルな構成を選んだ点に、私は深い敬意を表しました。聖歌としてより堅固なフォーマットとなっただけでなく、ポピュラリティーも一層強まり、メロディー自体が抜群のポップ・アンセム系バラードであるために、他にはない全く「爽快な」1曲となったからです。


 この聖歌は譜面通りの四声体で歌うも良し、コード解析してピアノやギターでのバッキングで歌うもよし、バンドでハード・バラードにプレイしてもよし。どんなアレンジにも耐え抜きます。しかし若い人達がイケてると強く思うであろうスタイルは、やはり鈴木隆太氏がCD「今日もまた新しく」で示したポップス・バラード調だと私も思います。そこで…というワケでもないんですが、Elpis用にアレンジ・演奏した録音を載せておきます。面白いことにこの聖歌は、大きく盛り上がるダイナミックな旋律を持つため、演奏して実際の音にするにはある程度の馬力が必要になります。曲が太く厚みのあるサウンドを求めてくるのです。


「長崎の空は」[2010年10月11日・大阪川口基督教会]
演奏:Elpis



 現代のポップ・フィーリングを教会聖歌(いわゆる“さんび”)に入れる事は、日本の多くの教派では長年に渡って頻繁に行われてきました。が、聖歌・讃美歌が培ってきた伝統のフィーリング(いわばクラシカルなテクスチャー)を放棄してまでポップ度を優先する傾向も多かったのは(私見ですが)事実だと感じます。勿論、両者の均等なバランスをとろうとした動きも見られました。が、そこには特定の教派にしかウケなかった“臭味”が強く出ていたものです。万人に理解され、荘厳ミサでも使用に耐え得るポップな聖歌・讃美歌を作るということは、殊更日本に於いて至難の業だったと思います。ですがここに、それを軽くクリアーしてきた聖歌が出来たワケですから、日本キリスト教会の音楽史から見れば大きな出来事でしょう。入堂・退堂聖歌にだって使用可能な、十分なパワーがあります。ですがそれを深く理解するに至るのは、今から20年以降のことだと思いますよ\(^o^)/。


 「長崎の空は」で最も重要なポイントは、年齢を重ねた人が深く噛みしめる詩と、若い世代にチョーウケる音楽が同居していることです。きっと老いも若きも、この聖歌を愛唱することでしょう。間違いなく、21世紀の空気を呼吸して出来た“最も新しい聖歌”だと思いますよ。

<< 前へ(prev) ページの先頭へ(Top) 次へ(next) >>