さ・ん・び とは?

 「Give me joy in my heart」、又は「Give me some oil in my lamp」として知られるこの歌は、聖公会では2001年の「改訂古今聖歌集試用版」で初めて紹介された、福音派系の教会では世界的に良く知られた“賛美”です。試用版はこのような“賛美”を躊躇なく歌詞に取り入れたことが、日本聖公会の聖歌の歴史に於いて大きな出来事だったと思います。かつては厳格な礼拝様式にふさわしく、重厚なムードを聖歌の本道として強力に求めてきた聖公会ですが(個人的な見解です)、礼拝そのものがオープンになり、教会の地域性に合わせた礼拝をする選択肢が増えまして、それに伴って用いられる聖歌のバリエーションも一層豊富にする必要性が生じたのでしょう。1950年代の『古今聖歌集』では「問答無用でダメじゃ!」と捉えられた、いわゆる“軽快なるもの”がどんどん聖歌集に入ってくる・・・これは時代性云々よりも、カトリック、東方教会、ルーテル、聖公会、その他のプロテスタントと、異なる教義を持つ全キリスト教会が離散の歴史から転じて“一致”していく動きと連動していると言うべきでしょうね。いわゆる“エキュメニカル運動”というヤツです。


 で、この聖歌についての詳しい事は、改訂古今聖歌集試用版のガイドブック「賛美は心に満ちて」を読んで頂くとして(もう絶版かも・・・乞う「日本聖公会 聖歌集」全曲のガイドブック)、この曲のような“賛美”と聖歌について、個人的な話しをます。


 アングリカン(聖公会)とプロテスタント(改革長老派、及びメソジスト)で育った私は20代後半まで、現在でこそキリスト教会では広く使われるようになってきた“賛美する”という用語を知りませんでした。言葉通りの意味でしたら一般的な日本語として理解できますが(文法的に目的語が着けばの話です)、ここでいう“賛美する”は独立した意味を持つ専門用語と言って良い。正解は、ズバリ“我らの主イエス・キリストへの賛美の歌をみんなで歌う”、即ち「讃美歌を歌う」ことです。主に福音派の流れを汲む教理・教義を持つ教会で至極普通に使われてきた用語で、ここでの“賛美”という言葉が適用されるのは(賛美すべき対象は)、この世の何ものでもなく、唯一、主イエス・キリストにのみ、といった、真っ直ぐな勢いがあります。その源流は、詩編にあるのでしょう。大昔のユダヤの民(ダビデ?)は、神を賛美する時は歌っていたみたいですなぁ。


 で、その“賛美”は、シンプルなコード進行、キャッチーなメロディー、シンコペーションの多用によるモダンな作りによってリズム楽器の必然性を促し、更に明快な歌詞で作られており、私の知っていた教会音楽のムードとは全く違いました。とにかく“Light”という言葉がピッタリ当てはまる。軽くて明るい。踊ることさえできる明るい歌を繰り返し歌うことで、場に高揚感が生まれ、会衆の心を一体にする・・・この経験で、礼拝音楽の根本的な部分では、目指すところはどのキリスト教会でも変わりないことを感じました。どのみち、主への賛美の歌(讃美歌)は、全員で声を合わせて歌うものなのだ。それがたとえダサくてサエない歌詞でも、ハレルヤな内容で、礼拝にばっちり適しているなら、究極的にはOKなワケです…アメダスっ!(^_^)


 1990年、聖公会神学院寮祭(オープン・ドミトリー)での特別賛美+礼拝で、あろうことか在校の神学院生が男声二部のコーラスグループ“Singer Queens(シンガークィーンズ)という名で特別賛美に登場、欧米の“賛美”を2曲ほど歌うという計画が立てられ、私はそのアレンジを頼まれました。ついでに鍵盤弾きの友人2人を誘って、演奏にも参加しました(私はエレキベースを弾いた)。


 そのうちの1曲「Give Me Some Oil in My Lamp」を私は大変気に入って、楽しく演奏させてもらいました。これが後に「さんびする喜びと」という日本語訳が付くことになる賛美で、サビのところで“Sing Hosanna, Sing Hosanna!”と歌うのが妙にハマっていてカッコ良い!いわゆる、チャート・アクションを狙えるヒット曲の必須要素をキチンと持った、質の高いポップな歌でした。そうか、こんなのが“賛美”っていうのか、かなりイケてるな・・・と当時はマジで思ったものです。英語の歌詞では、演奏はミドル・テンポぐらいでなければ我々には歌い難かったのですが、結果的には非常に“賛美”なフィーリングになりましたから「これで、いいのだ」と、バカボン・パパ風に思ったものです。

「Give Me Some Oil in My Lamp」(演奏:Singer Queens)

 

 

 さんびはエキュメニカルの旗頭!

 試用版にこれが収録されたとき、日本語歌詞を初めて見て驚いたのは、“さんび”という言葉が冒頭から飛びだしたこと。聖公会では“主の御名をさんびする”(讃美と書く)とは言っても、前置きに目的語を付けない単独での“さんびする”(こちらは賛美・讃美の両方を書くことがある)という使い方は見られませんでした。つまりテクニカルタームとしての“さんび”が現在、聖公会にも浸透したと見極めた上で、この日本語詞が編まれたのでしょう。一節目の歌詞を読んでみましょう。

賛美する喜びと 心からの祈り
主の御机囲んで 夜の明けるときまで
歌えホサナと ホサナ、王なる主イエス
歌えホサナと ホサナ、王なる主

 

 ごく一般的な文法上では、冒頭から“何に対しての賛美なのか?”というポイントを欠いており、実は説明を必要とする歌詞ではないでしょうか。実はこの歌詞で一発で内容を理解できる人自体が、ある意味でクリスチャン(又はキリスト教会に連なる人)なのであり、日本の総人口からみて数パーセントしかいません。正に専門用語です。ところがこういうの、よくあることです。


 例えば聖歌集の“さんび”モノとして、第303番「我が心は讃美に満ちる」があります。“さんび”を専門用語とし、“翻訳”して読めば、「私の心は主への讃美の歌で目一杯です!」という大きな喜びの讃美歌になります(歌詞の内容的にはこれが正解)。ところがこの場合、「わが心はさんびに満ちる、驚くべき主の賜…」と繋がり、“さんび”という言葉の意味に多様性があることを示唆します。つまり誰でも十分に理解できる一般的な日本語として、“さんび”が讃美歌を歌うことではないとしても歌詞の真意を正しく読み取る事が出来るわけです。一方、「さんびするよろこびと」では、そうは問屋が卸さない。“さんび”は讃美歌を歌うことでなければまるで心に響かず、意味もわかったようなわからないような…。私が考えるに「さんびするよろこびと」は、聖公会の聖歌で最もハレルヤな歌詞が付いている、と思うわけです。


 とはいえ、敢えて冒頭から“さんび”を使ったのにはやはり、エキュメニカル運動の影響なくしてあり得なかったと思います。特に聖公会のスタンスとして、カトリックとプロテスタントの間を埋め、相互の橋渡しをし、将来的に教会一致が成就した暁には、真っ先に消滅するのを最終目的とする教派にあって、プロテスタント福音派系で広く使われてきた用語“さんび”を正式に取り入れたことは、最終目的への前進だと思います。礼拝形式上では違いが多過ぎて、教会一致なんて3000年も先の話みたいですが、音楽はそんな人間の論理的思考の垣根を軽く飛び越えて行けるわけで、要するに現在“さんび”という単語は、日本に於けるエキュメニカル運動の先陣を切って走る旗頭なのですよ。

 

 Elpisで演奏してみた

 さて、話は戻りますが、英語の「Give Me Some Oil・・・」と日本語歌詞版では、驚くほど曲のニュアンスが変わっていました。英語よりも速いテンポを要求しているように感じたのです。これは語感の問題ですし、個人差もありましょうが、私にとってこの日本語歌詞は、スラスラっと歌える(喋る感じの)テンポを要求していると感じます。でないと元気に“さんび”できない気がするんです。


 では、この聖歌を“聞かせる”場合にはどうしたモンか? 2001年にElpisで演奏する折、思いっきりアップテンポでアレンジしようと考えました。だからといって安易にスラッシュ・メタルを選んでは、結果は空しいことになりましょう。やはり“スカ”の軽快なビート感こそが、この場合は凄くユーモラスで、軽やかで明るく、アレンジの上で最もよく似合うノリだと思いました。スカビートに乗せることによって、この賛美をより多角的に検証できると踏んだのです。しかしここまでヴィヴァーチェで演奏してしまうと、とてもみんなで賛美しよう等とはなりませんが、賛美らしくなくて妙に面白い賛美になってるでしょ? ←この最期の一節、ちゃんと理解できたら大したもんだ。 Sing Hosanna!さぁ、みんなで“さんび”しよう。…あっ、そうか!“Sing Hosanna”、この一節こそ“さんび”を端的にに言い表しているんだ!今ごろ気付いたよ。おあとがよろしいようで、チャンチャン。

聖歌第308番「さんびする喜びと」(Album「Live in Osaka」より)
(演奏:Elpis)


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