WEBB[Sample]                                                 LORD OF THE DANCE[Sample]


 今回は、聖歌集では番号が与えられなかった2曲の、世界的に大変有名なHymnを取り上げます。要するに、新しい聖歌集には入ってないんです。それもこの超有名な2曲が!「たてよいざたて [WEBB]」と「おどりでるすがたで [LORD OF THE DANCE]」・・・みんなビックリしたハズ!!これこそサプライズだ。とはいえ、この事実は色々なメッセージを訴えかけてくるように思えるのです。


 何故、聖歌集に載らなかったのか、番外地に追いやられてしまったのか?これは聖歌集改訂委員会の決断理由を知らなければ、「ナニ言ってんだおめぇー!アテにならんなー!」となるのがオチですが、私は別に、これらを入れなかった事について文句を言いたいのでありません。むしろその決断に感心しているのです。

 

 「たてよいざたて [WEBB]」

 「たてよいざたて」が聖歌集に入らなかったのは、歌詞に要因があったそうです。一節だけ書き出してみましょう。

立てよ、いざ立て主の強者
見ずや御旗のひるがえるを
すべてのあたを滅ぼすまで
君は先立ち行かせ給え

 

 この日本語詩の格調高い響き・・・いいっ!! とにかくカッコイイ!!


 内容は簡単に言ってしまえば「主イエス・キリストに従う者はどんな誘惑にも負けず、福音を身に纏って、神の国の実現へと進んでいこうじゃないか」という事なんでしょうがね。この聖歌で特にユニークなのは、最終節(第四節)には終戦、即ちこの世に於ける神の国の実現が描かれて締めくくるという、実に劇的なドラマ構成であること。勿論、神の国とは“パラダイス”のことで、全能の神が統治する完全な平和の世界のこと。当然、キリスト教も無くなり、宗教そのものが存在しません。言うなればジョン・レノンが「イマジン」で歌った世界観が、神の国に等しいかと。しかしそこに向かう事は、パウロが散々指摘してきた人間の弱さとの戦いは避けられません。それは即ち、葛藤であります。「たてよいざたて」では多くの人々に判りやすいよう、それを敢えて“戦い”になぞらえ、完全勝利による“終戦”へと向かうという構成を取り、非常に勇猛で刺激的な言葉を並べています(この聖歌の意味を“宣教”という観点からのみ捉える事は、私は現代に於いては非常に危険だと考えます)


 判りやすいしカッコいいからこそ人気のある聖歌だったのですが、逆に思いっきり勘違いされる聖歌の筆頭でもありました。実際、第一節の「すべてのあたを滅ぼすまで」を「敵は皆殺しだ、一人として逃すな」と読み解いた人がいました。第四節の「栄えの君と共に治めん」を「天皇の栄光と威厳がこの世を統治する」と読み解いた人もいました…まるっきり違います、読み違いです。ですが、それが2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロ以降の歴史によって、突如として読み違いでなく、奇妙にリアリティーを持たされてしまいました。歴史から誤解するように仕向けられた、言った方が正しい。


 9・11以降に改訂出版された世界の聖歌集・讃美歌集の多くには、この曲は入れられなかったそうです。例えばの話ですが、「すべてのあたを滅ぼすまで」が本当に「敵は皆殺しだ、一人として逃すな」に曲解され、政治利用されるのを危惧したと思われるのです。聞いた話ですが、日本聖公会としても新たな聖歌集を編纂するにあたり、教会、礼拝と聖歌が世界情勢に対してなすべきことを根底から見つめ直し、熟考した結果、「たてよいざたて」の掲載を断腸の思いで辞めたそうです。聖歌集に載らなかったので、聖公会の礼拝では歌われなくなってしまったのは残念ですが、教会に通っている人であれば大概は歌い慣れた、あのカッコ良くて元気の出る歌詞をですね、“改訂”と称して書き直すことを改訂委員会はしなかった…という事実こそ、大いに評価すべきかもしれませんよ。例えば「立ち〜上が〜りま〜しょう、主イエスのため〜」(御免ね、デタラメだよ)なんかじゃ話にならんもんね。そうまでして聖歌集に入れたとしたら、絶対にイヤだって。

 

 「おどりでるすがたで [LORD OF THE DANCE]」

 「おどりでるすがたで」(古今聖歌集増補版'95では第7番)はイエスの生涯、その歩みのアウトラインを1曲で歌い切る、非常に有り難い聖歌ですが、原詩に対する日本語訳詞が的確ではない事は、以前から教派を問わず、多くの人々から指摘されてきました(私自身もその話は多方面から聞いてきた。原詩を知らないので答えようがなかったが)。楽曲は大変良く、これも“元気の出る系”の聖歌なのですが、では歌詞を全面改訂しよう!とならなかったのは、(原詩にある深く、斬新な視点の神学が表現されていないとはいえ)巷ではこの歌詞で完全に定着していたためなんですって!だから「たてよいざたて」と同様、歌詞改訂せずに敢えて掲載しないことにした、という話です。あぁ、やっぱりちょっと残念・・・。


※追記(2021年10月1日)

 ご存じとは思いますが、この曲は19世紀、アメリカのシェーカー教徒の中で生まれた歌「Simple Gifts」のメロディーを耳にした英国の作曲家シドニー・カーターが新たに作詞、1963年に出版して世界中のキリスト教会で大ヒットしました。しかしそれ以前にこのメロディーは、アメリカの作曲家アーロン・コープランド(1900-1990)がバレエ及びその管弦楽組曲『アパラチアの春』にて「Simple Gifts」のメロディーを用いており、クラシック・ファンの間では既に馴染みのあるものでした。

 

 【検証】 対照的な性質を持つ2曲

 この“元気の出る系”の2曲は、対照的な性質を持っています。


 「たてよいざたて」は古典的な聖歌様式で、トランペットのフレーズのように噴き上げる勇壮な旋律を持ち、音符が全体的に均等に(バランス良く)配置され、シンプルな和声も効果的なのでハーモニーでも歌いやすく、聖歌の譜面として必要十分な実用性があります。


 一方、「おどりでるすがたで」は増補版では旋律だけの記載となっており、会衆は旋律だけをユニゾンで歌う事を推奨されています。しかし音符の配置が均等ではありません。サビの部分に明かな“隙間”が認められ、旋律だけを提供されても、何かが足りない、完成されていない、という印象を受けます。故にこの聖歌を礼拝等で用いる側が、足りないものを補填するために些か頭を使わなければならず、礼拝への自発的/積極的な関与を暗に促しています。


 勿論、それは現代の聖公会の礼拝の考え方に即したものですから、「たてよいざたて」と「おどりでるすがたで」の優劣は全くありません。が、これは私見ですが、「たてよいざたて」は他者の介入を許さない“与える型”の曲であり、「おどりでるすがたで」は実際に礼拝に用いてることで曲が完成する、“受け入れ型”のオープンな空気があるように感じられます。これがかつての「古今聖歌集」と、増補版〜試用版を経た現在の「聖歌集」の、根本的な空気感の違いを暗に示していると思えます。


 「おどりでるすがで」には、曲(譜面)自体が何かしらのリズムを求めています。特におりかえし(サビ/コーラス)に、それが強く感じられます。これは、この曲が元々、リズムを伴った形(例えばギターのコード・ストロークもリズムに含まれる)で産まれた曲であることを示しています。実際、リズムを入れることで譜面にある隙間が適度に埋まり、全体が一体となって躍動感を産み出します。しかもこの曲は、リズムの入れ方を変えると、曲の表情が様々に変化するほど「オープンな」作りになっています。言い換えれば“ラフ”なのです、良い意味で…ですよ。この曲の、Elpisがアレンジした演奏(2000年まで演奏していた初期版)を聴いてみて下さい。曲が欲しているリズム感を野暮ったくならないように入れてみました(テンポ感は曲が求めているものよりも遅いと思うんだけど)

「おどりでるすがたで」(Album 「揺りかごから居酒屋まで」より)
(演奏:Elpis=初期版)

 

 一方、古今聖歌集の「たてよいざたて」は譜面を演奏して音にしても、付加するものが自然には思い付きません。強いて言えばグランカッサ(大太鼓)・・・野球の応援のような。丁度、2008年センバツ高校野球で、これを応援団がやっている高校があったそうですね(情報提供:堀江和夫)。リズムといっても“マーチ”以外に、適切なものが思い浮かびません。仕上がりが非常に“クラシック”なんですね。

「たてよいざたて」[吹奏楽のための荘厳行進曲版]

 

 試しにコード付き歌譜を手にしたアマチュア・バンドが、ヘッド・アレンジもせず、取りあえず合わせてみました・・・みたいなバンド編曲版も聞いて下さい。すごくダサいです。野暮ったいです。イケてませんよ。

「たてよいざたて」[ダサいバンドアレンジ版](編曲:宮崎 道)

 

 更に野球応援団のラッパ隊風に演奏し、2曲を比べてみました。「たてよいざたて」は、譜面の原調で奏でても、“かーっとばせぇぇーっ!”って感じにまとまります。跳躍進行の連続する旋律が効いていて、勇ましさ、力強さが損なわれません。強拍(1拍目)にアクセントを置く曲だからでしょう。一方、「おどりでるすがたで」は弱拍(2拍・4拍)にアクセントを置いた方が収まりがよい曲のため、テンポを2倍に取り、少し高く移調して華やかさを出してやっています。旋律が順次進行のため、全体的に滑らかで優しい感じは拭えません・・・別にこんなことやらなくたって良いって?・・・ジェット風船も飛びますよ。

たてよいざたて - 応援団ラッパ版      おどりでるすがたで - 応援団ラッパ版

 

 新しい衣を着る〜Elpisはこう演奏してみた

 このように、古今聖歌集の収録聖歌の多くは完成品であって“あそび”の部分(車のアクセル/ブレーキの踏みしろのような)がほとんどありません。かつて、聖歌の奏楽をするにはオルガンでなければいけない、と叫んだ方々いらっしゃいました。ピアノですらダメだとおっしゃるのです。それは聖歌を高みに挙げ、一方の方向からのみ見上げた、限りなく単一指向の捉え方だったと(今となっては)思いますが、今でこそ、よくよく譜面を眺めながら考えれば、逆にその想い(考え方)も判ろうというモノです。これだけの鉄壁の聖歌ばかりの聖歌集ならば仕方ない (ですが現在、それは礼拝様式とはさほど関係ないことには注意すべきです)。それ故に、これまた私見ですが、20世紀末までの日本聖公会では聖歌を非常に大事にするあまり、青年キャンプ等で気軽に歌う様は見られず、敢えてワーシップソング集を持ってきては歌っていたものです。古今聖歌集の聖歌は、譜面の通りに奏楽しないといけないというイメージが暗黙のウチに存在していたかのようです。聖歌を音楽的に楽しむこと(=遊ぶこと)は、“タブー”に近かったのかもしれません。「たてよいざたて」にマーチ以外のリズムを乗せて歌うなど、考えられなかったと思います。そんな状況下で、我ら“Elpis”は20世紀末に、こともあろうに聖歌で遊ぶコンサートを行うというムチャぶりをしでかしたのです。


 古今聖歌集や讃美歌で徹底的に楽しもうという活動は、2000年にラテン調のビートに乗せてアレンジした「たてよいざたて」を作るに至ります。コンサートで演奏すると、これがテクノ・ハウスの「主にしたがいゆくは」に匹敵する大ウケ! 勇ましい「たてよいざたて」をハーモニーのカデンツも変えずに“踊れる”ことを実証しました(何の意味があって?)。そうすると、威厳は薄れて、戦闘的だとも捉えられる歌詞の内容は全く違って聞こえるほど、印象がガラっと変わります。自分で言うのもナンですが、新しい衣を着たかのようです。

「たてよいざたて」/演奏:Elpis(2011)

 

 翌年2001年、Elpisで「教会を全曲聖歌でディスコ(クラブ?)にしよう!」というコンサート・アイディアの下、増補版収録の「おどりでるすがたで」のアレンジを再考し、当時流行っていた“パラパラ”のスタイルで作り直します。旋律以外をほとんどスッパリと変え、強いマシン・ビートを全面に打ち出していますが、基本的にビートを求めている曲だからか、どんな無茶なダンス・アレンジでも楽曲の本質は変化なく、しかも適当にハマってしまうというフトコロの広さを感じます。

「おどりでるすがたで [パラパラ版]」
(Album 「Rhthm&Hymn〜府中聖マルコ教会Live」より)(演奏:Elpis)

 

 新しい聖歌集は「オープンな教会」の未来像

 新しい聖歌集を見ると、この「おどりでるすがたで」のようなフトコロの広い音楽性を持ちつつ、鋭い視点から直感的に、しかも深い内容の歌詞を持つ新しい聖歌を主に掲載しています。それは同時に、現代の日本聖公会教会の在り様を示唆するものに思えてなりません。フトコロの広い、オープンな日本の教会というものです。それ故に他者を圧倒し、悪魔をも寄せ付けない程の強力な聖歌「たてよいざたて」が入らなかったというのも、一方で原詩の内容が深すぎて日本語に訳しきれずにいた「おどりでるすがたで」が入れなかったのも、何となく納得できる気がしています・・・個人的な印象ですが。


 この2曲から、多くを学ぶことができました。逆に言えば私は、新しい聖歌集について、ほとんど判ってないんだろうなぁ〜。これからElpisでは、新しい聖歌を、礼拝で歌うのとは違った形で“楽しめるよう”に聴かせていかねば、と思っています。でも、「たてよいざたて」のような鉄壁の勇壮聖歌が、ポップコーンみたいにポコポコ弾けるという“ギャップ”こそがElpisの面白さだったと思うのだけど、今後はどうかなぁ…フトコロが広い聖歌ってのも考えモンだな。

 

 

 ボーナス・コンテンツ

 折角のスペシャル企画=番外編なのだから更に音源を載せておきますね。「おどりでるすがたで」を素材に遊んでみた例としてお聞き下さい。この曲の持つ素朴さは、アレンジを施すと意外なほど映えてくるんですよ、パラパラじゃなくてね。

「おどりでるすがたで [楽しいバンドアレンジ版]」(編曲:Peter宮崎 道)


「おどりでるすがたで [田園トラッドフォーク風]」(編曲:Peter宮崎 道)

 

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