特別寄稿: 『カープ・シンフォニー』のこと

最終章:このチャンスを活かすべきか?

 或る作曲家が生前に語ったアイディアが生き続け、数年後にその息子が父の遺志を継承して作品を完成させました…プレスの皆さんは総じてそのように表現しました。面白かったので、私も初演のパンフレット寄稿文に同様に書きました。実際は少しズレていたとしても、広島の地に根ざした歌を主題とした独立した管弦楽作品を書き、日本有数のプロ・オケに演奏されるという得難い機会を与えられたことについて、私は父に感謝せねばなりません。又、無名の作曲家を信じて夢を託した、広島交響楽団のチャレンジングな姿勢には本当に頭が下がります。その他大勢の人々に謝辞を述べなければなりませんが、それは個人的にこっそりやります。

 そして私には1つ「演奏可能な管弦楽作品」が自作品リストに入りました。しかも2回も演奏されたことでキャリアにもなりました。それを活かして更にクラシック・オーケストラ・シーンに参入していこう…といった考えには今も至りません。「カープ・シンフォニー」という作品の作曲で見つけたのは、私自身でしたから(詳しくは話さないでおきましょう。長くなりすぎます)。〈作品〉を作るなら邪念を払い、初心に立ち返って、正直に、自分が好きな「音」を求め続けて良いではないかと気付いたんですね。あの、作曲中に聞こえた“声”に従い「迷いなく好きなように」と。

 「カープ・シンフォニー」作曲中に気付いたことを羅列します。先に記したヴォーン=ウィリアムスが「民族音楽論」で著していた事と被る部分が多々あります。

  • 音楽とは1つ。ジャンルはない。多様にスタイリングされるだけ。
  • 自分が長く聞き続けたい音楽を作ることが作品作曲に於ける最大の魅力。
  • アウトプットするべき「音」は、その音楽の丈に見合ったものが最も美しい。
  • 作品自体が、演奏されるべき形態を求める。
  • 自らの美学の追求よりも音楽の力を信じ、音楽に従順であるべき。
  • 何より自分こそが自分のファンであって然るべき。
  • 交響曲を書くと財を失うジンクスは真実だ。
  •  そして最後に私は自分の足下を見ることにして、この話を終わろうと思います。

     仕事を断って半年間も没頭してしまうほど楽しい作曲作業でした。結果としてオモシロい作品になり、私自身はOKと思います。現代の音楽アカデミズムと無縁で、クラシックでもポップスでも何でもない、純然たる「広島交響楽団オリジナルのオーケストラ曲」です。稚拙な箇所も多々あるでしょう、けれど一度演奏すればその音楽は鳴り出しますよ。だから自信を持ってオススメします。だって自信がない作品を提供するなんて失礼でしょう?来る2016年1月11日の再演では巨匠・秋山和慶さんの指揮棒が、どこにフォーカスを当ててこの作品に内包したドラマを紡いでくるのか、それとも全く違う視点から作ってくるのか?それは「演奏して貰う愉しみ」です。期待しつつ、広島へ赴こうと思います。長い間、読んで下さって有難う御座いました。


    2017年1月6日(金)
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    Photo: T.Noji, C-K.Nakano, J-A.Miyazaki, Peter Michi Miyazaki




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