特別寄稿: 『カープ・シンフォニー』のこと

第5章:ドラマの芽吹き - 広島取材

 広島には2007年〜2008年の1年間で3度訪れました。最初は現地取材、2度目は当時のマーティー・ブラウン監督とのプレス向け製作発表記者会見、3度目が初演の公演でした。

 2007年9月の最初の広島訪問の際、海のモノとも山のモノともワカラナイ作曲家である私を広島の方々は歓待して下さり、「カープ・シンフォニー」への期待の大きさを感じたものです。そして瓦礫と被曝からの復興のかげにカープがあったこと、「それゆけカープ」がもはや広島市民の愛唱歌である事を教えて下さいました。

 はじめてカープの試合を観戦しに広島市民球場へ向かう際、原爆ドームをはじめて間近で見ました。通りを挟んで向かい合って立つ、荘厳なまでの廃墟である原爆ドームと、真っ白に輝く市民球場。この何とも言えない両者の不思議な立ち姿に驚き、何かドラマが芽生えてくるのを感じました。

 幸いな事にカープは前田智徳選手の2000本安打達成を目前に控えており、連日満員の中での試合観戦でした。ラッキーセブン(7回)のカープ攻撃の際、赤いスタンドの3万人の老若男女が総立ちで「それゆけカープ」を大合唱をする様を見てまず圧倒されました。その日の試合でのカープは7回以降、圧倒的な全員野球を展開、そして最後の打席でヒットを打った前田智徳選手は2000本安打を達成、試合終了後は「それゆけカープ」が再び流れて大合唱、それでも帰らない観客のうち、誰かが勝手に「それゆけカープ」を歌い出し、その輪が広がってまた大合唱となりました。

 広島の球場で、街の中で、世代を越えて歌われる様を見て、「それゆけカープ」は早々に“広島の民謡”になったんじゃないだろうか?と感じました。そこから私は、たった1曲でも人と人とを繋いでみせる「音楽の力」を、改めて信じるべきなんだと思い直すきっかけを得ました。更に父の言った「ボクは広島ではちょっとした有名人なんだよ」の言葉も、今度はリアルに過りました。

 その試合後の夜だったか、広島交響楽団の方が私に是非見せたい風景があると、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑へと連れて行って下さいました。トンネル状の慰霊碑の向こうにはライトアップされた原爆ドームが見えます。そこから一歩左に移動するように言われ、その通りにすると、広島市民球場のカクテルライト(ナイター照明)の眩い光も入り込んできました。「これが広島です。現在に至る先人たちの不屈の精神のシンボルです。原爆ドームの向かい側に市民球場が建てられたのは、人の目には偶然ですが、神の目には必然だったと感じませんか?」。その方はおっしゃいました。この方は詩人だなぁ…などと関心する間もなく、それまで漠然としていたドラマが明確なイメージ(画)になる、閃きの瞬間が訪れたのでした。

 原爆ドームと市民球場の50年間の歩みと別れ。広島市の復興を見届け、新天地に旅立つ球場と、そこに残って立ち続ける原爆ドーム…それが「カープ・シンフォニー」の根底を支えるドラマの大筋です。当初、原爆被害を受けたHiroshimaの悲惨な姿を扱う事は避けるべきだと考えていたのですが[※脚注]、原爆ドームなくして広島市民球場は語れず、原爆を無視して広島カープは語れないことを知りました。但し、「カープ・シンフォニー」は原爆の惨状を表現するのではなく、人力で復興していく広島の過去と現在とを繋ぐ鍵となったプロ野球チームの活躍を中心に、擬人化された2つの建造物が見た50年間というファンタジー要素を多分に含みます。

 主題として父のカープ・ソング、それに広島FMの“ミッキー”山本幹雄さんの祖父・山本 寿さんが作曲された「勝て勝てカープ(廣島カープの唄)」を主に使いますが、それらは現代の広島民謡として捉えました。私の父が作った旋律という事実から意識的に離れるためでもありましたが、そもそも民謡とは幾世代にも渡り歌われ、今後も愛され続ける歌である証であり、特に広島という地に於いて、「それゆけ…」と「勝て勝て…」は民謡と呼んで差し支えないレベルにあったからです。

 奇しくも「グリーンスリーヴスによる幻想曲」等で知られる英国近代の作曲家、レイフ・ヴォーン=ウィリアムスは自身の書に於いて「自分の居る地に根を張った上で創作するヤツこそが芸術家だぜ。ハナからワールドワイドを目指すヤツはヤバいぜ、お前どこから来たんだよって聞かれてんのに答えないようなモンだぜ。ニュルンベルグのマイスタージンガーは至高だぜ、徹底的に民族的だからこそワールドワイドなんだぜ。逆説のようだがマジだぜ!」(超意訳)みたいな事を書きながら、次のように著しています。

「民謡は、我々の様々な音楽的趣味を和解させるための絆ではないだろうか。ポピュラーとクラシック、低級な音楽と高級な音楽という具合に、我々はあまりに音楽を区別しすぎる。我々はいつか、ポピュラーでもクラシックでもない、高級でも低級でもない、あらゆる人々が参加出来る、理想の音楽を見いだすだろう。」

(中略)

「現在、それは夢である。しかし現実可能な中により大きな生命への芽をもっていることを理解しなければならない。我々の芸術が生き続けているという証拠は、我々の民族の精神的願いを、いく世代にわたって歌ってきた民謡以外の、いったいどこに見いだせるだろうか。」

(ヴォーン=ウィリアムス「民族音楽論」塚谷晃弘訳)

 広島滞在中、広電に乗ったり市内を歩いたり原爆資料館へ行ったりしましたが、一番時間を割いたのは平和記念公園のベンチでした。原爆ドームが真正面に見える川辺にベンチがあり、広島民謡としての「それゆけカープ」を口ずさみながら一人でゆっくりと作品について考えるには最適でした。原爆ドームのキャラクターは女性、それも戦争で深い傷を負った老婆。広島市民球場は戦後生まれの男子。ここまで決めてしまえば次々に「画」が見えてきて、それに必要な曲想を適宜当てはめていけば良い。使うべき旋律は既にある。しかし原爆ドームを表す主題だけが不足しており、新たに作曲する事に。それが第3楽章の「ドーム(A-Bomb Dome)」となり、シンフォニーの最初と最後に置いた旋律となります。結果として1楽章分増えてしまったので、構成は全5楽章になりました。

 私は海のモノとも山のモノともワカラナイ無名の作曲家ですから、1楽章が書き上がると試聴用のデモテープを製作しました。そっちのほうが普段の私の仕事に近いですからね。そのお陰で広島交響楽団側も、今、どんなものが作られているのかを知ることが出来、プレス記事に書かれていたような「応援歌をアレンジ」ではない「作品」であると判って安心して下さったようです。又、2008年11月24日と決まった初演では、ステージに広島とカープの歴史がスライドショーで映しだされることになり、その映像製作の準備にも大変役立ったとか。

 尚、半年間に及んだ作曲中は誰にも相談せず、一人で「これでいいのか?」と考えては、その都度、即答で「迷わずに好きなように書け」との答えが返ってくる気がして、エールを送られているような不思議な高揚感がありました。





[※脚注]
 広島交響楽団は2008年9月、広島出身の作曲家が書き上げた長大な交響曲をG8議長サミット記念コンサートに於いてワールドプレミアする予定になっていた。宮アは新聞記事を読み、その作品が原爆被弾直後のHiroshimaを表現している事を知り、イメージが似ないようにする必要を感じた。しかし宮アは、現代の「平和都市・広島」を表すのに悲惨なイメージは相応しくないと考えていた。



次は【第6章:2008年11月24日 - ワールドプレミア】

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