特別寄稿: 『カープ・シンフォニー』のこと

第4章:幻を現に - カープ・シンフォニー作曲依頼

 2006年10月13日、「それゆけカープ」管弦楽編曲版製作の際に父の電話連絡係だった広島交響楽団のスタッフが、父を偲んで神奈川県にある宮ア邸を訪れました(私もその席に呼ばれていた)。そこで初めて、父が「カープ・シンフォニー」という構想を持っていたことを知らされました。しかもその方はその場で、それを私に“完成”させてくれと言ったのです。寝耳に水でした。

 2008年に広島市民球場が閉鎖され、カープの本拠地は建設中の新球場に移行する。それに併せて市民球場への感謝のコンサートを11月に催し、そのメインイベントとして「カープ・シンフォニー」を位置づけたい。広島では広島カープ、サンフレッチェ広島、広島交響楽団がタッグを組んで“プロ3”という活動を開始した。だからこのコンサートに広島カープにも協力を要請する。オーケストラは広島交響楽団の全員をステージに乗せたいので三管編成、約80人で演奏するスコアにして欲しい…。

 この話を理解し、引き受けるには少々時間が必要でした。父の遺品には、その作品の草稿譜と思われるものは無く、更に構想を書いた文書メモすらも何一つとして遺ってておらず、まるでその“夢”はまるで“無”のようでした(補足:宮ア尚志は日々気付いたことや新たな音楽アイディアを事細かにワードプロセッサーに書き残していたが、この件に触れた文献は無かった)。

 つまり現実的には、宮ア尚志は「カープ・シンフォニー」を作らなかったのです。

 そうしますと別の懸念が頭をもたげてきました。既に発表されている応援歌等の旋律を除き、「カープ・シンフォニー」本編の一片たりとも父が“作っていない”となれば、管弦楽作品がない、楽譜の出版もない、作曲コンクールの受賞歴もない、学歴もない、知名度もない、どこにも属していない、そもそもクラシック・ミュージックの界隈に居ない私を、名のあるプロ・オケがわざわざ指名するべき理由が見当たらない。ただ「それゆけカープ」の作曲者のご子息、親の七光りだというだけで何とかなるワケでもないでしょうし、あまりにリスクの大き過ぎる賭けではないか?勿論、私には願ってもない交響楽を書く絶好のチャンス到来。しかしこんな“ないないづくし”の私が作品を書き上げたところで演奏されることなどあり得るのか?この公演自体がそもそも実現不可能なのではないか?

 その後、広島交響楽団と直接やりとりするうちに、私のクリスマス・アルバム『ヤァ!クリスマス第5集《Wish and Hope》』(2000)を持っていた他の団員から聞かせてもらって大変感銘を受けた事、そしてこれが大博打であることを認めながら、この賭けに勝てる自信がある、貴方がそれを完成させてくれるなら…と何度も言われました。これが父の見果てぬ夢の1つであったのだとしたら、それを私が引き継いでやり遂げるのは「託されたバトン」をリレーする大事なことに思えましたが、個人感情はさておいて、一体、宮ア尚志は何をどのようにしたかったのか?考えるのに長い時間が必要でした。

 「それゆけカープ」、「ヴィクトリー・カープ」、「カープ讃歌」をシンフォニーにする…という伝え聞いた言葉を尊重し、同時に「古賀政男の主題による交響的変奏曲(ギターとオーケストラのための)」に倣って、その3曲を各々1つの楽章に割り振って“主題”とし、最終楽章ではそれらが“再現”されるという、ごく普通の構成を大雑把に設定し、スケッチ書きを始めましたが、かつて父が自分の母親(私の祖母)に言った言葉を急に思い出して、筆は止まってしまいました。

ボクは広島じゃ、ちょっとした有名人なんだよ…。

 …ナンだそれは?

 関東に済む私には、広島の人々にとっての「それゆけカープ」の価値が、如何なるものであるかを知りません。父が「それゆけカープ」を作曲している姿は、あまりに短期間であったためか全く記憶にありません。父が思い入れ深い広島という地すら知らない(私は乳幼児の頃に大林宣彦監督の実家・尾道に行ったらしいが記憶にない)。広島市民球場に行ったこともない。野球場でカープの試合を観戦したこともない。そして父の言葉は意味不明。これでは何一つとして作品を作る上で掴めていないではないかと思い立った私は一路、広島行きの新幹線に乗りました。



次は【第5章:ドラマの芽吹き - 広島取材】

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