製作ノート    (文:宮崎 道)

 CD『NAOSHISM』は父=ヨシュア宮崎尚志の逝去・葬儀を行った直後、2003年5月半ばに家族全員で会合をもち、製作を決定したものです。選曲に関してはほぼ長男・宮崎光司祭、次男・宮崎道(私)、三男・宮崎歩の3人を中心に一晩で決めました。


 CD原盤製作、並びにジャケットデザイン等に関しては私が受け持ち、製品化に関しては私がプロデュースしていた“UNITY!プロジェクト”の(株)ヨベル・安田正人社長の協力を仰ぎ、CDプレスはユニバーサル・ミュージックを通じて行いました。


 作曲家・宮崎尚志…といえばCM音楽、CMソングです。しかしこれ関しては様々な権利が絡んでおり、クリアーするには時間がかかる。約1ヶ月で仕上げなければ“香典返し”にならない事から、世の中に知られている宮崎尚志の代表作を最初から収録を諦めなければなりませんでした。又、映画監督=大林宣彦さんとの映画音楽は、1999年頃に既にCDとして全て発売されていたこともあって収録は見送りました。


 結果として選び出したのは未発表曲でした。となると、ほぼ全てがデモテープです。葬儀に駆けつけてくれた父・母の友人らは、いわゆる業界人(それもディレクターやプロデューサーが多い)ですので、宮崎尚志サウンドとして納得できる仕上がりであるか、選曲した全曲を聴いて徹底的にチェックしました。


 私がCD原盤製作をしている間、並行して兄・宮崎光司祭と母・中野慶子はライナーノーツ(ブックレットの中身)を執筆していました。勿論、私がデモテープに手を加えて新しい録音に仕上げようとしているとは知っても、一体どうなるのかは知る由もありませんでした。それ故、先に完成したライナーノーツの文面には、クレジットされていない事柄も多くあります。よってここに記するのは「CDのライナーノーツの副読本」としてお読みいただければ幸いです。


1.「神よ力を!」

10.「いのちを奏でよ-SOGAKU-」

 これらは宮崎尚志のものではなく、息子3人がガヤガヤやって作ったものです。この2曲に限らず、前夜式(5/6)・葬送式(5/7)の2日間に収録されたライヴ録音は全て、5月7日の葬送式のものを使用しています。この時の音源は多数あり、聖堂前方・右サイドのギャラリーに設置されたDAT、聖堂中央の左右両サイドのギャラリーに固定された2台のデジタルビデオ(以下DV)、聖堂内を移動撮影していた手持ちのDVの、4つの音源がありました。更に「いのちを奏でよ」に至っては、親戚が最前3列目に座したまま回したDVが存在し、それらの音をミックスしていく方法をとりました。

 「神よ力を!」はDATの音を基本に、L-chに左サイドのDV、R-chに右サイドのDVからの音を軽くミックスしています。

 「いのちを奏でよ」ではやはりDATを基本に、歌の1番を親戚のDVからとった音をミックスして、できる限り宮崎 歩のボーカルを明瞭にしようと試みました。他は「神よ力を!」と同じ方法をとっています。左サイドに位置したDVはパイプオルガンと聖歌隊のすぐ横に位置していたため、オルガンと聖歌隊の声はこのDVからの音が重要な役割を果たしました。


2.「なぜ花は咲くのでしょう」
4.「私は愛に包まれて」
6.「街が踊るよクリスマス」
12.「大きなものからこぼれ落ちた」

 20世紀末〜21世紀初頭にまたがって書かれた一種のゴスペル・ミュージックであり、父がいうところの“ナオシのクリスチャン・ソングス”、別名「香蘭ソングス」の中の4曲です。

 このうち2,4,12は全く手を加えず、そのまま収録しましたが、これらの曲で最初に完成した「街が踊るよクリスマス」だけは父が作ったデモ演奏(ピアノ、シンセ×2のシンプルなオケ)がこの楽曲の本当の良さを伝えるものとしては力不足だと判断し、大幅にオーバーダビングをしました。エフェクティヴな導入部からしてオリジナル・デモにはない新要素です。曲がスタートしてからはドラムス&ベースを付加したのをはじめ、随所にキーボードで父が演奏したフレーズとユニゾンしたりハモったりして輪郭を明瞭につけ、最後にストリングス・シンセを加えて厚みをもたせました。


5.「小さなピンクのドラゴン」
7.「エルマーと一緒に」
11.「天守物語〜フィナーレ」
14.「涙のピッチョン」

 この4曲は人形劇団プークの芝居音楽です。「ピンクのドラゴン」、「エルマーの冒険」、「天守物語」、「王様とまほうつかいのチョモチョモ」の4作から収録しました。この収録については、私からプークの役員に電話して許諾をもらいました。プーク・サイドとしては「許諾なんてとんでもない、プークとの音楽は尚志先生に全権があるのだから。収録してもらえるなんて光栄だ。」と快くOKしてくれました。しかし何故、敢えて人形劇団プークの芝居音楽を入れたか? それは私ら息子3人は、プークの劇で育ったからであります。単なる個人的な思いが先行しているのは、まるっきりご愛嬌としてお許し下さい。

 プークとの劇は数多くあり、中にはブルガリア国際人形大会で音楽賞を受賞した「うさぎの学校」もありましたが、敢えて2003年当時に公演中の作品から選ぶことを提案しました。勿論、『NAOSHISM』収録に際して、これらの音源に手を加えるなどは一切ありません。

 但しクレジットにないことですが、1998年に楽士付き(私と河合沙樹=Fluteの生演奏付き)という形で初演された『天守物語』は2002年の再演に際して、7月に初レコーディングが行われました。が、その時、新たなアレンジメントから録音作業に関する全てを、父は私に任せたのです。特にこの「フィナーレ」は1998年の生演奏時には(とても手が足りなくて)出来なかった幽玄のダイナミズムを思いっきり表現しました。出来上がったサウンドを聞いて父は「素晴らしい出来だ。こんなスゴい音はボクには出来ないよ。エンディングのハーモニーなんか、とても発想できないもん。」と手放しで喜んでくれました。実はこの劇音楽のスコアには私のパートはほとんどコードしか書いておらず、“その日の舞台のムードを掴んで自由にアレンジしてやってくれ”とのことでしたから、レコーディングではより自由にやらせてもらいました。

 尚、元々1990年代に父が手がけた「王様とまほうつかいのチョモチョモ」は2003年3月に再演が決まり、2002年末に父の家で演出家と共に打ち合わせが行われました。勿論、私はそこに同席して話を全て聞いていました。が、父は翌年1月末に入院したため、再演に関する音楽変更の全ての作業を私が引き継ぐことになりました。大きな変更点は40曲ほどある劇音楽のうちの3曲ほどを手直しすること、そして“劇中のミュージカル・ソングナンバー”の全てを再演版キャスト自身に歌ってもらうため、その録音とディレクションを行うことでした。新たな再演版キャストでのボーカル録音テープを持って、父に病院で聞いてもらったところ、父は一言「あれ、これはこんな良い曲だったっけ?」と驚き、プーク劇団員の表現のスキルの高さのみならず、歌のディレクションも成功していると褒めてくれました。そのうちの1つがこの「涙のピッチョン」です。そして変更になった数曲の劇音楽を、私は病院との往復生活のわずかな時間を使ってワンマン・マルチ・レコーディングで仕上げ、それも父にベッドの上でヘッドフォンで聞いてもらい、OKを得てからプーク側に提出しました。これが私にとって生前の父との最後のコンビネーションによる仕事でした。が、まさか死後になっても父は私の手を借りるとは思ってもみませんでしたがね…。


3.「船出のララバイ」
8.「まみちゃんとぼく」
15.「こまったなあ」(CD「夢みる星屑」より)
16.「ゴッホの絵」

 この4曲は、ボニージャックスのトップテナー=西脇さんが主催する詩人の会“綾の会”で作られた70曲あまりある歌曲の中から選びました。綾の会は1999年でしたか、『夢みる星屑』という2枚組CDを発売しています。父の曲はその中に6曲ほど収録されていましたが、父が詩人のためにセッセと母と録音したデモ演奏が50数曲もあり、その中にはCDに収録されていない傑作もありました。この機会に小出しに紹介してもいいんじゃないか?と家族会議で意見が出され、結果としてCDに収録されていた「船出のララバイ」と「こまったなぁ」の2曲の他に、「まみちゃんとぼく」、「ゴッホの絵」を収録することにしました。特に、この機会以外では多分お聞かせすることはあり得ないだろう、ということで、父自身が歌っているものを率先して入れることにしたのです。

 「こまったなぁ」はCD『夢みる星屑』収録。父のボーカルを初めて公に披露した録音です。実はCD録音版の他に、やはり父が歌っているデモ演奏も存在しました。又、母が歌ったデモ版もあります。しかしCD版に勝るものはなかった為、これだけは母が西脇さんに連絡して、CDからの転載を許可してもらいました。

 「まみちゃんとぼく」は、“まみちゃん”という連作の第2曲にあたるナンバーで、第1曲の「まみちゃん」とどちらを収録するか、非常に悩みました。どちらも可愛い曲でしてね…。この録音には一部ノイズが混入していて、最近のハイファイなオーディオで聞くと非常に耳障りでした。出来ればデモ録音に使ったデジタル・マルチトラック・レコーダーのバックアップディスクから新たにリミックスをしたかったのですが、残念ながらバックアップは残っておらず、残念ながらノイズを目立たないようにマスタリングするに留まりました。

 「船出のララバイ」はCD『夢みる星屑』に収録されていますが、同じテイクを収録するのは面白くないので、デジタル・マルチトラック・レコーダーのバックアップ・データと、演奏そのもののMIDIデータを父の部屋から探しだし、バック・オケだけよりクリアーな音に差し替えてリミックスしました。CD『夢みる星屑』での録音と聞き比べてみるのも面白いだろう、と思ってのことです。尚、母のボーカルもデモのものを使用していますので、CDのテイクとは全く違った印象があるハズです。

 「ゴッホの絵」は『NAOSHISM』だけのサービス品。父のリードボーカルのデモ録音です。これも「船出....」と同様にレコーダーのバックアップ・データとMIDIデータを集めて、父のボーカルだけ残して完全にオケを差し替えました。部分的に木管セクションの音をアレンジして入れたりしましたが、限りなく宮崎尚志自身の演奏によるサウンドにするようにしました。


9.「ピスガの丘」

 これを父が書き上げた時、私は傍にいました。出来上がった時に既に「これは名曲だ」と思ったほど、父が作曲した“讃美歌”としては最高の作だと今でも思っています。ですが、母が歌ったデモ演奏では、父はパイプオルガンのサウンドで延々“奏楽”をやっているという状態のもので、『NAOSHISM』収録のためには、出来るだけ「全曲通して聞けるサウンド」にしなければと考えました。それで、またもやレコーダーのバックアップディスクを探しだし、兄が保管していた父直筆の四声体のオルガン譜を手に入れて、アレンジに乗り出したのです。

 デモ演奏で父は、いかにも奏楽風なオルガンで1コーラスを丸々1回聞かせてイントロにする、という方法をとっていましたが、CDにした場合には冗長すぎて飽きてしまうため、より短くダイナミックな導入部を作りました。歌い出しの旋律の4音を用いて、まずチェロ群から奏で始め、ヴィオラ、ヴァイオリン群と重なっていき、主旋律がファンファーレ風にトランペット群で奏でられ、雄大な感じに盛り上げます。

 歌に入ってからは、楽譜通りのハーモニーで最後まで通しました。特に大幅なアレンジを加えることなく、ティンパニやシンバルといったものを付加した以外、全て譜面の通りです。


13.「この世に主イエスの道を伝え」
18.「互いに手を取り祈るとき〈遺作〉」

 葬送式(2003.5.7)では献花の間中、会場となった日本聖公会・聖三一教会の聖歌隊が宮崎尚志+宮崎道作の聖歌をずっと演奏して下さいました。しかし聖堂には何百人もがザワザワと動いており、録音には絶え間ないノイズが一緒に収録されていました。特に前方のDATでの録音には、献花を終えて出ていこうとする人達の囁き声が、内容が聞き取れるほど明瞭に記録されており、とてもじゃないですがこれをそのままCDにすることは出来かねました。故に、かなり荒っぽい手法のミックスを施しています。ほとんどの音源が、DVからのものを使いました。

 「この世に主イエスの道を伝え」は元々“香蘭ソング”の1つで、「この世の闇路を照らす光」という歌詞だったものを兄・宮崎光司祭が新たに作詞し直したものです。譜面はコードが書かれた歌譜が1つ、それとは別にオルガン奏楽を想定してアレンジしたであろうメモ的なデモ録音が残っていました。葬送式で演奏するためには、改めて楽譜に起こさなければなりません。父が亡くなった5月2日の夜に葬儀が行われる聖三一教会に遺体を搬送し、葬儀の日取りを決めた後、私は日付が変わった5月3日の明け方に一人家に戻り、葬送式用の譜面を次々に書いていきました。そのうちの1つがこれでした。

 「互いに手を取り祈るとき」は絶筆となった曲です。父が入院して間もないころにベッドの上でサラっと書いたものでしたが、完成させることなく逝ってしまったため、作詞をした兄・宮崎光司祭の要望で、私が補作完成させたものです。CDに収録した録音ではリフレインの冒頭で(寝ぼけながら書いたのがマズかった)一音だけ臨時記号の書き間違いをしてしまい、そのままオルガニストが演奏しているのでヘンな音になってしまっています。尚、この曲に関しては私のサイト「Peter宮崎道のやけくそ聖歌作家」「第472番ここにいのりの家がある(互いに手をとり祈るとき)」に詳しく記していますのでご覧下さい。


17.「人間が大好きだ!」

 父が入院した直後、私は1999年に長野県童謡唱歌フェスティバル(於・松本文化会館)で行われた母=中野慶子のステージの模様を、プライベートCD『Mammy with Orchestra』にしました。このステージでは松本交響楽団のメンバーによる小オーケストラ付きでの演奏で、父も自負していたコンサートでしたから、喜んでくれるだろうと思って製作したのです。そうしましたら父はベッドの上で、カバーアート(写真右)を気に入ってくれてしまい、そのお陰で後に『NAOSHSIM』のカバーアート全般をも任されることになってしまいました。

 さて、このCDの最後を飾るのが「人間が大好きだ」で、この曲は1973〜1974年にかけての三菱グループのCMソングで、シングル・レコード盤まで作られたものでしたが、CMのものとは全く異なる音源のため、収録手続きは簡単でした。

 このテイクには演奏的には手を加えることは一切していませんが、マスター製作の段階でかなり音質をいじりました。それにより、『Mammy with Orchestra』のと比べると音質は飛躍的に向上しました…といっても誰も知らないんだからわかんないよなぁ。

 NAOSHISM〜カバーアートの製作

 私はデザインのプロではなく、あくまで趣味でジャケット製作をしている程度です。この『NAOSHISM』のアート・ディレクションが、広く人に見られる初めての作業となり、大変恐縮しております。

 CD原盤製作と並行して、私はジャケット(カバーアート)の素材集めも行っていました。母に頼んで父の写真を出してもらい、スキャンしてPCに取り込む作業を何度も行ったのですが、問題はデザインです。色々考えましたが父のご愛用のスーツを出してもらい、陽の光りの中で写真を撮ってみることにしました。何故なら、父の青いスーツは特別仕立てで、陽の光に当たると玉虫色の光を発色するものでしたので、何か起こるだろうと期待して取り組んだ訳です。

 スーツを撮っていて、やはり父のトレードマークでもあった“真っ赤なポケットチーフ”も入れないとアカンやろ、とセッティングして撮影してみたところ、良い感じに写るので、チーフの形状を試行錯誤繰り返しながら整え、教え子達から「宮崎先生はいつも燃えている」と言われていたような“炎のような”感じにしました。又、よく「尚志さんのスーツの裏には龍が描かれている」と噂されていた(うそばっかり)、裏地の“馬の絵柄”のも見えるようにしました。

 NAOSHISMの文字は、父が多くの人からもたれていた“ダンディーなイメージ”を強調しようと思い、かなりファッショナブルな感じに配置しました。文字の配置が逆さまではないか?というご指摘もありますが....。(写真左)

 フロントジャケットでは、炎のポケットチーフをメインに据えて、首の下あたりまでをとらえたものを使用しましたが、CD盤を取りだしたその下、インレイのデザインでは、よりスーツを接写したものをベースとして使ってみました。繊維の1つ1つが見えて、メタリックな発色が確認できるかと思います。尚、サインは宮崎尚志直筆のものです。(写真右)

 裏ジャケットでは父の部屋で見つけたものを数多く配置しました。五線紙は、父の机の上に常備してあったメモ用の大判のスコア用紙です。写真は先ほど書いた通り、写真をスキャンしたものばかりで、万年筆は写譜用のペン、老眼鏡は御愛用のもの、そして十字架ペンダントは机の前にぶら下がっていたものです。それらを1つずつ撮影し、PC上で整えていきました。(写真左)

 結果としてこのカバーアートに関して、その筋の方々からデザインが優れていると評価していただき、父を知る人達からは、いかにも尚志さんらしいイメージだと言われました。あぁ〜よかった。それが私の本音です。